陸軍予備士官学校
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安部孝一 少将:1943年6月10日[39] - 1944年5月19日[40]

横田豊一郎 少将:1944年5月19日[40] - 1944年7月5日[41]

南部襄吉 予備役中将:1944年7月18日 -

豊橋第一陸軍予備士官学校

豊橋陸軍予備士官学校が豊橋市町畑町の豊橋陸軍教導学校内に設置され、翌年同教導学校は豊橋市西口町に移転した。移転先でのちに同教導学校が廃止され新たな陸軍予備士官学校が設置されると、従来の豊橋校は豊橋第一陸軍予備士官学校と改称した。
豊橋陸軍予備士官学校


石黒貞蔵 少将:1939年8月1日 - 1940年8月1日(豊橋陸軍教導学校長兼務)

古閑健 少将:1940年8月1日 - 1941年9月1日(豊橋陸軍教導学校長兼務)

小田健作 少将:1941年9月1日 - 1942年12月14日

永沢三郎 少将:1943年3月1日 - 1943年8月2日

豊橋第一陸軍予備士官学校


永沢三郎 少将:1943年8月2日 - 1944年7月5日[41]

早淵四郎 予備役中将:1944年7月18日 - 1945年8月31日

豊橋第二陸軍予備士官学校

豊橋市町畑町から同市西口町に移転した豊橋陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま豊橋第二陸軍予備士官学校が設置された。千葉県津田沼町に移転を予定し習志野陸軍予備士官学校と改称されたが終戦により移転は中止され、名称もふたたび豊橋第二陸軍予備士官学校となった[42]

宮崎武之 大佐:1943年8月2日 - 1944年5月10日[43](在職中に少将に進級)

島田恵之助 大佐:1944年5月10日[43] -(在職中に少将に進級)

久留米第一陸軍予備士官学校

奉天陸軍予備士官学校が久留米近郊に移転し、久留米第一陸軍予備士官学校と改称した。
奉天陸軍予備士官学校


南部襄吉 少将:1939年8月1日 - 1940年12月2日

中村次喜蔵 大佐:1940年12月2日 - 1941年8月1日

久留米第一陸軍予備士官学校


中村次喜蔵 少将:1941年8月1日 - 1943年3月1日

人見秀三 少将:1943年3月1日 - 1943年10月29日(1943年6月10日、中将に進級[44]

樋口敬七郎 少将:1943年10月29日 - 1945年4月1日[45](1945年3月1日、中将に進級[44]

野副昌徳 予備役中将:1945年4月3日[46] - 1945年8月27日[24]

久留米第二陸軍予備士官学校

久留米陸軍予備士官学校として設置された。のちに奉天陸軍予備士官学校が久留米近郊に移転すると、従来の久留米校は久留米第二陸軍予備士官学校と改称した。
久留米陸軍予備士官学校


河根良賢 大佐:1939年8月1日 - 1941年7月28日

久留米第二陸軍予備士官学校


八木節太郎 大佐:1941年7月29日 - 1942年9月21日[47]

橋本定寿 大佐:1942年9月 - 1943年12月15日

宮下秀次 大佐:1943年12月15日 -

仙台陸軍予備士官学校

仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置された。

原田棟 大佐:1943年8月2日 - 1945年2月12日[48](在職中に少将に進級)

宮脇幸助 大佐:1945年2月12日[48] -

熊本陸軍予備士官学校

熊本陸軍教導学校が廃止され、熊本陸軍予備士官学校が設置された。のちに津山近郊に移転し、津山陸軍予備士官学校と改称した。
熊本陸軍予備士官学校


石井信 大佐:1943年8月2日 - 1945年7月5日[49](在職中に少将に進級)

柴田夘一 中将:1945年7月5日[49] - 1945年7月24日

津山陸軍予備士官学校


柴田夘一 中将:1945年7月24日 -

著名な卒業者

小野田寛郎少尉

山本七平少尉

日向勝少尉

中原光信少尉

岩里政男(李登輝)少尉

石橋信夫少尉(大和ハウス工業創設者)

芥川比呂志中尉

渋沢雅英少尉

跡地

盛岡陸軍予備士官学校跡地:
森永乳業盛岡工場、岩手県営体育館

仙台陸軍予備士官学校跡地:東北大学川内キャンパス

前橋陸軍予備士官学校跡地:陸上自衛隊相馬原駐屯地第12旅団司令部等)

豊橋第一陸軍予備士官学校跡地:愛知大学愛知県立時習館高等学校

久留米第一陸軍予備士官学校跡地:陸上自衛隊前川原駐屯地陸上自衛隊幹部候補生学校

熊本陸軍予備士官学校跡地:熊本城二の丸公園

脚注
注釈^ 本記事では便宜上、特に「兵科」または「各部」の表記がない場合に「将校」は「兵科将校」および「各部将校」(1937年2月までは「各部将校相当官」)の両方を意味することとする。
^ 他に操縦候補生などがあった。「御署名原本・昭和十年・勅令第二六四号・陸軍補充令中改正(国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A03022003200 
^ 乙種幹部候補生は予備役下士官となる教育を受けた。
^ 陸軍の現役兵または下士官として在営中に陸軍予科士官学校の召募試験に合格し、入校した生徒も一部にはいた。
^ 少尉候補者学生教育が陸軍予科士官学校で行われたのは1937年から1940年の間である。「御署名原本・昭和十五年・勅令第六八九号・陸軍士官学校令中改正(国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A03022508900 
^ 官衙(かんが)とは一般には官庁あるいは役所を意味する。陸軍の官衙には東京中心部に置かれた陸軍省などのほか、兵器廠や各地の連隊区司令部、陸軍病院なども含まれる。『陸軍読本』58-68頁
^ 「当分ノ内甲種幹部候補生ニ対スル陸軍予備士官学校ニ於ケル教育ハ之ヲ陸軍教導学校、陸軍歩兵学校又ハ陸軍大臣ノ定ムル輜重兵連隊ニ於テ行フコトヲ得」「御署名原本・昭和十三年・勅令第一三七号・陸軍補充令中改正(国立公文書館)」 アジア歴史資料センター Ref.A03022181500 
^ この年の採用者は7か月と陸軍補充令改正で定められていた。
^ 「仙台陸軍予備士官学校」が設置されるのは1943年8月の陸軍予備士官学校令改正による。
^ 移転先の教導学校内でも予備士官学校とは別に幹部候補生隊を組織し、甲種幹部候補生の集合教育が行われた


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