陸軍予備士官学校
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1943年(昭和18年)8月1日施行の「陸軍部内ニ於ケル教育整備ノ為ニスル陸軍航空士官学校令外六勅令中改正等ノ件」(勅令第221号)の第2条となる陸軍予備士官学校令改正により陸軍予備士官学校は仙台、前橋、熊本に各1校、豊橋、久留米に各2校と定められた[31]。これは前述した勅令第221号の第9条による陸軍教導学校廃止にともない仙台、豊橋、熊本の各陸軍教導学校内の幹部候補生隊を改めて、それぞれ仙台陸軍予備士官学校、豊橋第二陸軍予備士官学校、熊本陸軍予備士官学校とし、従来の豊橋陸軍予備士官学校を豊橋第一陸軍予備士官学校へ改称したものである。
終戦まで

1944年(昭和19年)10月、新制度の特別甲種幹部候補生[32](場合により特甲幹と略される)が各陸軍予備士官学校に入校した。特甲幹はこの年採用の第1期[* 14]、翌年採用の第2期、第3期までが各陸軍予備士官学校等に入校した。

1945年(昭和20年)7月、熊本校は岡山県勝田郡の農学校に移転し、7月24日施行の陸軍予備士官学校令改正(勅令第433号)[33]により、津山陸軍予備士官学校と改称された[34]

同年8月、日本政府はポツダム宣言を受諾し、8月15日に太平洋戦争の終戦に関する玉音放送がされた。8月18日、大陸命第1385号により全陸軍は「与エタル作戦任務ヲ解ク」とされ[35]、陸軍予備士官学校は同月中に閉校となった。終戦時には仙台(歩兵)、前橋(歩兵・砲兵)、豊橋第一(歩兵・砲兵・工兵)、豊橋第二(歩兵)、津山(歩兵・工兵)、久留米第一(歩兵・砲兵・工兵・通信兵)、久留米第二(輜重兵)の各陸軍予備士官学校が置かれていた[9][10]。このうち豊橋第二校は千葉県津田沼町に移転が決定し、同年7月21日付で豊橋市内に置かれたまま習志野陸軍予備士官学校と改称され8月13日より移転業務を開始したところ、直後の終戦にともなう停戦命令により移転が中止され名称もふたたび豊橋第二陸軍予備士官学校となったものである[36]

学校の根拠となる陸軍予備士官学校令は、同年11月13日施行の「陸海軍ノ復員ニ伴ヒ不要ト為ルベキ勅令ノ廃止ニ関スル件」(勅令第632号)により廃止された[37]。幹部候補生制度の根拠となる陸軍補充令は1946年6月14日施行の「陸軍武官官等表等を廃止する勅令」(勅令第319号)により正式に廃止された[38]
年譜

1938年8月 陸軍予備士官学校を設置(仙台陸軍教導学校内)

1939年3月 陸軍予備士官学校を盛岡近郊に移転(騎兵第23連隊跡地)

同年  8月 陸軍予備士官学校を盛岡陸軍予備士官学校と改称

      豊橋陸軍予備士官学校を設置(豊橋陸軍教導学校〈町畑町〉内、同教導学校は翌年11月西口町に移転)

      久留米陸軍予備士官学校を設置

1940年8月 奉天陸軍予備士官学校を設置

1941年8月 奉天陸軍予備士官学校を久留米近郊に移転、久留米第一陸軍予備士官学校と改称

      久留米陸軍予備士官学校を久留米第二陸軍予備士官学校と改称

      盛岡陸軍予備士官学校を前橋近郊に移転、前橋陸軍予備士官学校と改称

1943年8月 仙台、豊橋、熊本の各陸軍教導学校を廃止

      仙台陸軍予備士官学校を設置(仙台陸軍教導学校跡地)

      豊橋第二陸軍予備士官学校を設置(豊橋陸軍教導学校〈西口町〉跡地)

      熊本陸軍予備士官学校を設置(熊本陸軍教導学校跡地)

      豊橋陸軍予備士官学校(町畑町)を豊橋第一陸軍予備士官学校と改称

1945年7月 熊本陸軍予備士官学校を津山近郊に移転、津山陸軍予備士官学校と改称

同年  8月 敗戦によりすべての予備士官学校を閉校

歴代校長
陸軍予備士官学校

陸軍予備士官学校が仙台陸軍教導学校内に併設され、翌年仙台から盛岡近郊に移転した。1校のみの時代は地名を冠称しなかった。

天谷直次郎 少将:1938年8月1日 - 1939年3月9日(仙台陸軍教導学校長兼務)

岡本保之 少将:1939年3月9日 - 1939年8月1日

前橋陸軍予備士官学校

それまで1校のみであったものが3校体制となり、従来の陸軍予備士官学校は盛岡陸軍予備士官学校と改称した。のちに盛岡から前橋近郊に移転し、前橋陸軍予備士官学校と改称した。
盛岡陸軍予備士官学校


岡本保之 少将:1939年8月1日 - 1940年8月1日

阿部平輔 少将:1940年8月1日 - 1941年7月13日

桜田武 少将:1941年7月13日 - 1941年8月1日

前橋陸軍予備士官学校


桜田武 少将:1941年8月1日 - 1942年7月9日

野副昌徳 少将:1942年7月9日 - 1943年6月10日[39]

安部孝一 少将:1943年6月10日[39] - 1944年5月19日[40]

横田豊一郎 少将:1944年5月19日[40] - 1944年7月5日[41]

南部襄吉 予備役中将:1944年7月18日 -

豊橋第一陸軍予備士官学校

豊橋陸軍予備士官学校が豊橋市町畑町の豊橋陸軍教導学校内に設置され、翌年同教導学校は豊橋市西口町に移転した。移転先でのちに同教導学校が廃止され新たな陸軍予備士官学校が設置されると、従来の豊橋校は豊橋第一陸軍予備士官学校と改称した。
豊橋陸軍予備士官学校


石黒貞蔵 少将:1939年8月1日 - 1940年8月1日(豊橋陸軍教導学校長兼務)

古閑健 少将:1940年8月1日 - 1941年9月1日(豊橋陸軍教導学校長兼務)

小田健作 少将:1941年9月1日 - 1942年12月14日

永沢三郎 少将:1943年3月1日 - 1943年8月2日

豊橋第一陸軍予備士官学校


永沢三郎 少将:1943年8月2日 - 1944年7月5日[41]

早淵四郎 予備役中将:1944年7月18日 - 1945年8月31日

豊橋第二陸軍予備士官学校

豊橋市町畑町から同市西口町に移転した豊橋陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま豊橋第二陸軍予備士官学校が設置された。千葉県津田沼町に移転を予定し習志野陸軍予備士官学校と改称されたが終戦により移転は中止され、名称もふたたび豊橋第二陸軍予備士官学校となった[42]

宮崎武之 大佐:1943年8月2日 - 1944年5月10日[43](在職中に少将に進級)

島田恵之助 大佐:1944年5月10日[43] -(在職中に少将に進級)

久留米第一陸軍予備士官学校

奉天陸軍予備士官学校が久留米近郊に移転し、久留米第一陸軍予備士官学校と改称した。
奉天陸軍予備士官学校


南部襄吉 少将:1939年8月1日 - 1940年12月2日

中村次喜蔵 大佐:1940年12月2日 - 1941年8月1日

久留米第一陸軍予備士官学校


中村次喜蔵 少将:1941年8月1日 - 1943年3月1日

人見秀三 少将:1943年3月1日 - 1943年10月29日(1943年6月10日、中将に進級[44]

樋口敬七郎 少将:1943年10月29日 - 1945年4月1日[45](1945年3月1日、中将に進級[44]

野副昌徳 予備役中将:1945年4月3日[46] - 1945年8月27日[24]

久留米第二陸軍予備士官学校

久留米陸軍予備士官学校として設置された。のちに奉天陸軍予備士官学校が久留米近郊に移転すると、従来の久留米校は久留米第二陸軍予備士官学校と改称した。
久留米陸軍予備士官学校


河根良賢 大佐:1939年8月1日 - 1941年7月28日

久留米第二陸軍予備士官学校


八木節太郎 大佐:1941年7月29日 - 1942年9月21日[47]

橋本定寿 大佐:1942年9月 - 1943年12月15日

宮下秀次 大佐:1943年12月15日 -

仙台陸軍予備士官学校

仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置された。


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