陸軍予備士官学校
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さらに歩兵科、砲兵科といった原則として陸軍予備士官学校での集合教育を行う甲種幹部候補生も、その人員の多さのため陸軍予備士官学校だけでは対応できず、陸軍補充令改正附則第5条[* 7]にもとづいて陸軍教導学校内に幹部候補生隊を設ける場合があったほか、外地では奉天甲種幹部候補生隊[6]、保定幹部候補生隊[7][8]などを組織した。これらを「予備士官学校」と通称する著述が一部に見受けられる。1945年(昭和20年)7月、満州国牡丹江省に設置されたとされる「石頭予備士官学校」[9]教育総監隷下の正規の陸軍予備士官学校ではなく通称であり[10]、正式には「関東軍歩兵第二下士官候補者隊」(満州第604部隊)が編成を増強して甲種幹部候補生を入隊させ教育したものである[11]
沿革
仙台に1校を設置

1938年(昭和13年)4月10日施行の陸軍補充令改正(勅令第137号)により、幹部候補生の修業期間がこれまでの1年間から、現役1年次兵の場合は入営日より満2年、その他の兵は幹部候補生採用よりおよそ1年8か月と延長され、兵科甲種幹部候補生は陸軍予備士官学校を始めとする陸軍の諸学校または陸軍大臣の定める部隊において、およそ11か月間の教育を受けると定められた[1]。同時に陸軍予備士官学校令(勅令第139号)が施行され[2]、8月1日付で宮城県仙台市の仙台陸軍教導学校内に陸軍予備士官学校を設置した[12][9]。同年9月、歩兵科甲種幹部候補生が入校し、7か月の教育を受けた[* 8][13]
盛岡に移転、2校増設

1939年(昭和14年)3月、仙台にあった陸軍予備士官学校は岩手県盛岡市近郊、岩手郡厨川村騎兵第23連隊兵営跡地へ移転した[14][15]。仙台においては陸軍予備士官学校を廃し[* 9]、仙台陸軍教導学校内の幹部候補生隊として教育を続けた[16][17]。さらに同年8月1日施行の陸軍予備士官学校令改正(勅令第517号)により[18]、盛岡のほか愛知県豊橋市福岡県久留米市[19]に1校ずつを設置した。陸軍予備士官学校は盛岡陸軍予備士官学校(歩兵科)へ改称し[20]、新しく設置された2校はそれぞれ豊橋陸軍予備士官学校(歩兵科・砲兵科)、久留米陸軍予備士官学校(輜重兵科)となった。豊橋校は当初市内の町畑町にある豊橋陸軍教導学校内に設置され、同教導学校が翌年11月13日付で豊橋市内の西口町に移転[* 10]したのち[21]、町畑町の陸軍学校施設は豊橋陸軍予備士官学校のみとなった。久留米校は当初久留米陸軍偕行社内に仮設置されたが、同年9月23日付で久留米市西町の独立山砲兵第2連隊兵営跡に移転した[22][23][24]
奉天校を設置、計4校

1940年(昭和15年)8月1日施行の陸軍予備士官学校令改正(勅令第483号)により満州国奉天市でそれまで集合教育を行なっていた奉天甲種幹部候補生隊[6]が奉天陸軍予備士官学校(歩兵科)と改編され[25]、この時点での陸軍予備士官学校は盛岡、豊橋、久留米、奉天の4校となった[* 11]。同年9月、陸軍はそれまでの「歩兵科」「砲兵科」といった兵科区分を廃止し、憲兵を除くすべてを単一の「兵科」として区分は「歩兵」「戦車兵[* 12]」「砲兵」などの兵種区分に改めた[26]
4校のうち2校が移転

1941年(昭和16年)、盛岡校は群馬県群馬郡の相馬原演習場[27]に移転し、前橋陸軍予備士官学校(歩兵・砲兵)となった。8月1日施行の陸軍予備士官学校令改正(勅令第746号)により陸軍予備士官学校は前橋と豊橋に各1校、久留米に2校と定められた[28]。これは奉天校が福岡県三井郡高良内村に移転、久留米第一陸軍予備士官学校(歩兵・砲兵)と改称し、従来の久留米校を久留米第二陸軍予備士官学校(輜重兵)[* 13]としたものである[29]。奉天校の代わりに中国大陸には軍令陸甲第1号により河北省保定市に保定幹部候補生隊が置かれ、北支那方面軍隷下部隊の甲種幹部候補生(歩兵、砲兵、輜重兵)に対する集合教育が行われた[30][8]
3校を増設、計7校

1943年(昭和18年)8月1日施行の「陸軍部内ニ於ケル教育整備ノ為ニスル陸軍航空士官学校令外六勅令中改正等ノ件」(勅令第221号)の第2条となる陸軍予備士官学校令改正により陸軍予備士官学校は仙台、前橋、熊本に各1校、豊橋、久留米に各2校と定められた[31]。これは前述した勅令第221号の第9条による陸軍教導学校廃止にともない仙台、豊橋、熊本の各陸軍教導学校内の幹部候補生隊を改めて、それぞれ仙台陸軍予備士官学校、豊橋第二陸軍予備士官学校、熊本陸軍予備士官学校とし、従来の豊橋陸軍予備士官学校を豊橋第一陸軍予備士官学校へ改称したものである。
終戦まで

1944年(昭和19年)10月、新制度の特別甲種幹部候補生[32](場合により特甲幹と略される)が各陸軍予備士官学校に入校した。特甲幹はこの年採用の第1期[* 14]、翌年採用の第2期、第3期までが各陸軍予備士官学校等に入校した。

1945年(昭和20年)7月、熊本校は岡山県勝田郡の農学校に移転し、7月24日施行の陸軍予備士官学校令改正(勅令第433号)[33]により、津山陸軍予備士官学校と改称された[34]

同年8月、日本政府はポツダム宣言を受諾し、8月15日に太平洋戦争の終戦に関する玉音放送がされた。8月18日、大陸命第1385号により全陸軍は「与エタル作戦任務ヲ解ク」とされ[35]、陸軍予備士官学校は同月中に閉校となった。終戦時には仙台(歩兵)、前橋(歩兵・砲兵)、豊橋第一(歩兵・砲兵・工兵)、豊橋第二(歩兵)、津山(歩兵・工兵)、久留米第一(歩兵・砲兵・工兵・通信兵)、久留米第二(輜重兵)の各陸軍予備士官学校が置かれていた[9][10]。このうち豊橋第二校は千葉県津田沼町に移転が決定し、同年7月21日付で豊橋市内に置かれたまま習志野陸軍予備士官学校と改称され8月13日より移転業務を開始したところ、直後の終戦にともなう停戦命令により移転が中止され名称もふたたび豊橋第二陸軍予備士官学校となったものである[36]


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