陸栄廷
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この急激な姿勢転換の理由について、ある論者は、護国軍支持の世論への配慮だけではなく、広東都督竜済光を優遇する袁への姿勢への不満や、広東への勢力拡大の意図などを指摘している[2]。いずれにしても、陸の独立は袁にとって強烈な打撃となったことは否定できず、その1週間後の3月22日に、皇帝即位を取り消した。

陸栄廷自身の軍は湖南省へ進軍し、莫栄新らの桂軍は広東省へ進攻した。これにより、広東の竜済光も4月6日に反袁世凱の独立宣言を迫られている。袁が6月6日に病死すると、竜は独立を取り消して、再び北京政府側についた。しかし、陸の桂軍は李烈鈞率いる護国軍と挟撃する形で竜への攻撃を継続し、最終的に竜は海南島へ逃走した。同年10月、陸は広州入りし、広東督軍に就任した。1917年(民国6年)4月には、陸は北京を訪問し、黎元洪から両広巡閲使に任命され、広東・広西両省の管轄権を認められた。
護法軍政府での政争

同年、孫文が護法戦争を発動すると、陸栄廷は南方政府の重鎮としてこれを支持した。9月、孫文が広州で護法軍政府を組織して大元帥となると、陸は雲南省の唐継尭とともに元帥に選出された。しかし陸・唐は、孫文の下風に立つことを拒み、就任しなかった。次に、1918年(民国7年)5月に軍政府が改組され、孫、陸、唐ら7人の総裁による集団指導体制になると、陸・唐は総裁就任に応じた。同年8月には、陸が擁立する岑春煊が主席総裁となり、陸率いる桂軍が護法軍政府で主導権を握った。岑と陸は「南北和平」を唱えて、北京政府(特に直隷派)との交渉を進めようとした。

ところが、岑春煊・陸栄廷による権力独占や北京政府との融和の姿勢に反発して、孫文、唐紹儀、唐継尭、伍廷芳など他の総裁は敵対的姿勢をとるようになる。さらに、陸栄廷による広東支配は広東人の反感を次第に高めていく。ついに民国9年(1920年)7月、孫らを支持する陳炯明が率いる粤軍(広東軍)が、陸・岑への攻撃を開始した。同年10月、岑は追い詰められて下野し、11月までに桂軍は広東を駆逐され広西に撤退した。
再起ならず

陸栄廷はそれでも広東支配をあきらめず、北京政府の支援を受けて広東への再進攻を画策した。しかし1921年(民国10年)6月から、孫文の「援桂」の指示を受けた陳炯明が粤軍を率いて広西省へ逆進攻してくる。7月に、陸の腹心である広西辺防軍第2路総司令沈鴻英が、孫文陣営への寝返りを宣言する。ついに陸は南寧で下野を宣言し、9月末には最後の拠点竜州も喪失し、上海へ逃走した。

その後、陳炯明が孫文と決裂した間隙を突く形で、1923年(民国12年)11月、陸栄廷は北京政府から広西全省善後督弁に任命されて南寧入りし、再び広西省の統治者となった。しかし、省内を完全掌握した状況にはなく、沈鴻英の勢力と李宗仁・白崇禧黄紹率いる新広西派(新桂系)とが陸に対抗していた。

この3勢力鼎立の中で、最強の陸栄廷に対抗するため、沈鴻英と新広西派が事実上の連合を形成する。1924年(民国13年)4月、桂林に進軍してきた陸を沈が包囲・攻撃した。その包囲戦の間の6月、新広西派は手薄となった南寧を占領し、陸はさらに追い込まれてしまう。8月、陸は桂林を棄てて全州に退却し、桂林は沈によって占領されてしまった。そして9月、沈の追撃を受けて全州も失い、広西省から駆逐された陸は湖南省永州に逃げ込んだ。結局10月9日、陸は永州で下野を宣言したのである[3]

以後、陸栄廷は政界に返り咲くことなく、1928年(民国17年)11月6日、上海で死去した。享年70(満69歳)。
陸栄廷に対する評価

陸栄廷を最終的に駆逐した新広西派の指導者たちではあったが、陸本人に対しては、卑賤から身を起こして広西の統治者となった成功譚や広西省に近代化をもたらした功績などもあり、必ずしも悪感情を抱いていなかった。例えば李宗仁は、「大悪人」の沈鴻英と一時的に同盟して、陸を先に攻撃したことについて、李自身ですら心情的には穏やかなものではなかった、と述べている。また、当時の広西省内の人士たちも、陸に対する感情はさして悪いものではなかったと証言している[4]
^ Who's Who in China 3rd ed.,p.574は1856年としている。
^ 黄宗炎「陸栄廷」謝本書主編『西南十軍閥』上海人民出版社、1993年、53-55頁。
^ 以上、莫済杰・陳福林主編 『新桂系史 第1巻』、59-74頁;黄宗炎「陸栄廷」謝本書主編『西南十軍閥』、76頁。なお陸の下野時期については、全州で9月23日、とする説もある(李宗一「陸栄廷」『民国人物伝 第1巻』、196-197頁など)。しかし10月9日説の方が、『申報』1924年10月23日記事、黄紹рフ回顧録『五十回憶』等の裏づけがあるため、有力である。
^ 『李宗仁回憶録』143頁。

参考文献

黄宗炎「陸栄廷」謝本書主編『西南十軍閥』上海人民出版社、1993年。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}
ISBN 7-208-01642-9。 

莫済杰・陳福林主編『新桂系史 第1巻』広西人民出版社、1991年。ISBN 7-219-01885-1。 

李宗一「陸栄廷」中国社会科学院近代史研究所 編『民国人物伝 第1巻』中華書局、1978年。 

李宗仁口述、唐徳剛撰写『李宗仁回憶録』広西人民出版社、1988年。ISBN 7-219-00473-7。 

黄紹『五十回憶』岳麓書社、1999年。ISBN 7-80520-968-5。 

徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。 

劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。 

  中華民国北京政府

先代
(創設)広西都督
1911年11月 - 1914年6月次代
(将軍に改称)

先代
(都督から改称)広西将軍
1914年6月 - 1916年7月次代
陳炳焜

先代
(創設)貴州宣撫使
1916年3月 - ?月次代
(廃止)

先代
竜済光広東督軍
1916年7月 - 1917年4月次代
陳炳焜

先代
(創設)両広巡閲使
1917年4月 - 11月次代
竜済光

先代
(創設)粤辺防務督弁
1920年12月 - 1921年次代
(廃止)

先代
林俊廷(広西自治司令)広西辺防督弁
1923年9月 - 1924年10月次代
李宗仁(広西善後督弁)

 中華民国軍政府

先代
(創設)元帥(就任せず)
1917年9月 - 1918年7月次代
(廃止)

先代
(創設)総裁
1918年7月 - 1920年10月次代
(廃止)

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