この間、明治元年にかつて難波新地の芸妓であった蓮子夫人と結婚、長男広吉、次男潤吉を儲けるが、明治5年(1872年)には蓮子夫人が亡くなり、翌明治6年(1873年)に亮子と再婚した。 明治10年(1877年)の西南戦争の際、陸奥は元老院仮副議長であったが、和歌山からの募兵を募ることを献策、岩倉から依頼され4月大阪に向かう。これは増援部隊として派遣されることによる戦後の陸奥の発言権強化と、状況によっては土佐立志社の反乱軍と合流する両にらみの戦略であった。立志社の林有造・大江卓らは武力蜂起と暗殺による政府転覆[注 2]を謀っていたが、陸奥は土佐派と連絡[注 3]を取り合っていた。しかし大久保、伊藤は陸奥に和歌山募兵を担当させることの危険を知る参謀局長鳥尾小弥太の建言に基づき、陸奥の到着に先立ち旧藩主茂承を出馬させ、三浦安を中心に募兵計画を進行させていた。4月12日にこれを伊藤から聞かされ、自らの秘策が封じられたことを知り深い屈辱感と怒りにまみれた陸奥は大江、岩神昂と共に即時挙兵と暗殺計画を画策する。しかし、4月15日、熊本城連絡路が開かれ政府軍の優位が明確になり、立志社の挙兵計画も遅滞したため、計画に見切りを付け、29日に大阪を立ち、東京で大江に計画の中止を説く。8月に林と岩神が逮捕、陸奥も翌年6月に検挙され、除族のうえ禁錮5年の刑を受け投獄された。山形監獄に収容された陸奥は、妻亮子に手紙を書く一方、自著を著し、イギリスから帰国した星亨の勧めと島田三郎訳『立法論綱』(1878年)の影響により、イギリスの功利主義哲学者ジェレミ・ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ。出獄後の明治16年(1883年)にベンサムの An Introduction to the Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理序説)を『利学正宗』と題して翻訳刊行した。なお、山形監獄の火災時に陸奥焼死の報が伝えられたが、誤報であることがわかると、明治11年(1878年)に伊藤博文の尽力により当時最も施設の整っていた宮城監獄に移された。 明治16年(1883年)1月、特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学。明治17年(1884年)にロンドンに到着した陸奥は、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。ロンドンで陸奥が書いたノートは7冊現存されている。内閣制度の仕組みや議会の運営方法等について、民主政治の先進国イギリスが長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々を盛んに吸収し、ウィーンではローレンツ・フォン・シュタインの国家学を学んだ。 明治19年(1886年)2月に帰国し、10月には外務省に出仕。明治21年(1888年)駐米公使となり、同年駐米公使兼駐メキシコ合衆国公使として、メキシコとの間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。帰国後、第1次山縣内閣の農商務大臣に就任する。 明治23年(1890年)、大臣在任中に第1回衆議院議員総選挙に和歌山県第1区から出馬し、初当選[7]を果たし、1期を務めた。閣僚中唯一の衆議院議員であり、かつ日本の議会史上初めてとなる衆議院議員の閣僚となった。陸奥の入閣には農商務大臣としてより、むしろ第1回帝国議会の円滑な進行(今でいう国会対策)が期待された。実際に初代衆議院議長の中島信行は海援隊以来の親友であり、またかつて部下であった自由党の実力者星亨とは終生親交が厚く、このつながりが議会対策に役立っている。なお、このとき農商務大臣秘書であったのが腹心原敬である。陸奥の死後、同志であった西園寺公望・星・原が伊藤を擁して立憲政友会を旗揚げすることになる。
投獄と欧州留学
政界への復帰