陸奥宗光
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天保15年(1844年)8月20日、紀伊国和歌山(現在の和歌山県和歌山市吹上3丁目)の紀州藩士・伊達宗広と政子(徳川治宝側用人渥美勝都の長女)の六男として生まれる。幼名は牛麿(うしまろ)。生家は伊達騒動で知られる伊達兵部宗勝伊達政宗の末子)の後裔と伝えられるが、実際は12世紀に陸奥伊達氏から分岐して駿河国に土着した駿河伊達氏(の分家紀州伊達家)の子孫である。幼少・青年期は伊達小次郎、中村小次郎、陸奥小次郎、陸奥陽之助、伊達陽之助、源二郎、元二郎などと称した[2]。父・宗広は紀州藩に仕えながら、本居大平の門に入り国学者・歴史家としても知られ、史論『大勢三転考』を著した。父の影響で、尊王攘夷思想を持つようになる。父は藩主治宝に引き立てられ財政再建をなした重臣(勘定奉行)であったが、宗光が8歳のとき(1852年)治宝の死により失脚したため[3]、一家には困苦と窮乏の生活が訪れた。和歌山城下を追われ、数年の間紀ノ川上流で何度か居所を変え、伊都郡入郷村に落ち着き、高野山の荘官である岡左仲の世話になる。五條の儒者森鉄之助に学び、宇智郡の豪農北厚治や五條の書肆松屋(本城)久吉などの支援を受ける。
幕末期紀州藩士時代の陸奥

安政5年(1858年)、高野山江戸在番所の寺男として江戸に出る。困窮し、筆耕等により口を糊すること三年、安井息軒に師事し、又水本成美の塾に入る。後長州藩の桂小五郎(木戸孝允)・板垣退助・伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる(伊藤痴遊吉原通いが露見し安井から破門されたとするが、当時は窮乏していたと見られ疑わしい)。文久3年(1863年)に勝海舟神戸海軍操練所(海軍塾)に入り、塾頭の坂本龍馬に私淑、また、広瀬元恭の時習堂にも出入りする。弁舌が立つ才子で、勝によれば同輩の評判は甚だ悪く「嘘つきの小次郎」と言われていた。元治元年(1864年)操練所解散後、慶応元年(1865年)4月大坂から坂本や小松帯刀西郷隆盛とともに鹿児島に向かう。その後亀山社中に加わるが、この時期は錦戸広樹の変名で薩摩の小松帯刀に抱えられており、長崎の何礼之の英語塾の門人となる。錦戸太郎という変名も使った。また、長崎亀山に滞在中、一外国人宣教師の家に住み込み、その夫人から英語を教授されたと伝えられている[4]。慶応2年(1866年)2月、長崎での近藤長次郎自裁の報を京都に伝え、翌月鹿児島に向かう坂本と同乗し長崎に帰る。同年5月寺島宗則が上海から阿久根まで乗った帆船に船員として乗船していた。同年後半から頭角を顕し、土佐グループの主要メンバーとなる。慶応3年(1867年)には坂本龍馬海援隊に加わり意見書「商方之愚案」を提出、坂本に認められ、商事部門を任され外国商人からの武器買付などを行う[5]。勝と坂本の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめたという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」と絶賛している。

龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と主張し、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件を起こした(天満屋事件)。
維新後

鳥羽伏見の戦いに先立つ慶応3年12月23日(1868年1月1日)、大坂のイギリス公使館にアーネスト・サトウを訪ね、新政府の承認問題について意見交換を行った。陸奥は皇族の一人が大坂城内で外国公使と会見し、王政復古の布告を宣言することを提案、サトウの賛成を得ると、これに基づく意見書を議定岩倉具視に提出。慶応4年1月、岩倉の推挙により、外国事務局御用掛に任命される[注 1]1868年)。戊辰戦争に際し、局外中立を盾に引き渡しを拒否していたアメリカと交渉し、甲鉄艦として知られるストーンウォール号の引き渡し交渉に成功、その際、未払金十万両があったが財政基盤の脆弱だった新政府には支払えなかった。会計官権判事を兼任した陸奥は大阪の商人らに交渉し、一晩で借り受けることに成功、新政府の首脳陣に深い感銘を与える。6月大阪府権判事となる。兵庫県知事であった伊藤博文を度々訪ね版籍奉還廃藩置県などを論じ、親密な関係を結ぶ。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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