国際競技統括団体ワールドアスレティックスは1912年に創設され、1983年からは、オリンピックとは別に陸上競技のみの大会として、世界陸上競技選手権大会を開催するようになった[8]。世界陸上は世界有数のスポーツイベントの1つで、2009年のベルリン大会では約3300万人がイベントを視聴したとされる[9]。他に世界室内陸上競技選手権大会やヨーロッパ陸上競技選手権大会なども開催されている。また、アジア競技大会など大陸別の競技大会においても陸上競技は必ず開催され、花形競技の1つとなっている。特にオリンピックを始め、主要な陸上競技大会の期間中は高い注目を集めるものの、スポーツ全般から見ると多くの国で一般からの関心の度合いはやや低くなりがちである。
トラック&フィールド競技では、世界各地の競技会を転戦して総合成績を競うサーキット大会IAAFグランプリが1985年に創設された。IAAFグランプリはIAAFゴールデンリーグ・IAAFスーパーグランプリを経て、2010年から両者が統合されIAAFダイヤモンドリーグとなり[10]、IAAFワールドチャレンジ(2020年よりワールドアスレティックスコンチネンタルツアー)とともに毎年春から夏にかけて開催されている[6]。一方マラソン競技においては世界各地で大規模なマラソン大会が行われており、なかでも2006年よりボストンマラソン・ロンドンマラソン・ベルリンマラソン・シカゴマラソン・ニューヨークシティマラソンの5大会とオリンピック・世界陸上の計7大会でワールドマラソンメジャーズが開催されるようになった[11]。さらに2013年大会より、東京マラソンがワールドマラソンメジャーズに加入し、計8大会となった[12]。 イギリスでは13世紀から16世紀にかけてスポーツを楽しむことに国家的な制限を課していた。これはアーチェリーの鍛錬に支障が出ないようにするためであった[13]。この制約が17世紀になって除かれた後、イギリスではスポーツが再び盛んになった。陸上競技組織の活動は19世紀になって行われるようになった。これには学校においてスポーツ体育が実施されるようになった影響もある。正規の学校における陸上競技が取り入れられた初出としてイギリスのサンドハースト王立陸軍士官学校において1812年、1825年に行われたとの説もあるが、これを補強する証拠は今のところない。記録に残っている最古の会合は同国のシュロップシャー州シュルーズベリーで1940年に王立シュルーズベリー校が開催したもので、当時1838年から1841年まで生徒として在籍していたCTロビンソン
イギリス
1868年に刊行された『最新陸上競技』によれば、当時の陸上競技のほとんどの競技はハンディキャップ・レースだったという[14]。陸上競技はギャンブルの対象であり、観客は記録よりも勝ち負けとレースの過程や公正さを重視した。そのため、資格を持ったハンディキャッパーが競技者の実績によってスタート位置を調整するなどのハンディキャップを付け、白熱したレースを演出していた。一方、プロフェッショナルランナーを排除し、紳士のスポーツによる人格形成を目的としたアマチュア陸上クラブが1866年にロンドンで組織され、常設の陸上競技場による競技が行われた[14]。陸上競技のハンディキャップ・レースはオリンピックなどの公式レースでも20世紀前半まで行われたが、スポーツが競戯からアマチュア・ルールによる近代スポーツへと変化する過程で消滅した。 日本では1873年(明治6年)3月21日に、東京・築地にあった海軍兵学寮のイギリス人教師が開いた「競闘遊戯」が最初の陸上競技大会である[15]。競闘遊戯はathletic sportsの訳語で、雀雛出巣(すずめのすだち、150ヤード走)、燕子学飛(つばめのとびならい、300ヤード走)、大鯔跋扈(ぼらのあみごえ、走高跳)などの種目があった[15]。また同年10月に開成学校(東京大学の源流)にて明治天皇隣席の下で行われた「体操御覧」の1種目「行飛」が競走であった可能性がある[16]。本格的に陸上競技が日本人の間で行われるようになるのは、1875年(明治8年)に東京英語学校(後の東京大学)に着任したフレデリック・ウィリアム・ストレンジによる普及活動以降である[17]。ストレンジはイートン・カレッジの出身で、陸上競技とボート競技を得意とし、余暇にこれらを実践して学生の関心を惹き、普及させた[17]。1883年(明治16年)には東京大学の3学部と予備門合同の陸上運動会が開かれ、以降東大の名物となった[18]。この運動会では後に藤井實が100mと棒高跳で世界記録を樹立した[19]。 明治30年代(1897年 - 1906年)になると、東京帝国大学と第一高等学校を中心に、学習院や高等商業学校(後の一橋大学)でも陸上競技が盛んとなり、明治40年代(1907年 - 1912年)にはスパイクシューズが使用され始め、早稲田大学・慶応義塾大学が新勢力として台頭した[20]。東京高等師範学校(後の筑波大学)では嘉納治五郎校長の下で校内長距離走が開かれていたが、陸上競技界ではまだ弱小であった[21]。大正時代初期まで「陸上競技」という日本語は存在せず、この頃に創部した陸上競技部は、東京高等師範学校では「徒歩部」(後に筑波大学陸上競技部に改称)、早稲田大学や明治大学では「競走部」を名乗っている。 日本が初めて近代オリンピックに参加したのは、1912年(明治45年)の第5回ストックホルム大会であり、短距離走の三島弥彦と長距離走の金栗四三が参加した[22]。
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