陶淵明
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陳寅恪の研究によると、現在の湖南省にある五渓蛮出身[3]
生涯

陶淵明の四言詩「子に命(なづ)く」によると、その祖は神話の皇帝、帝堯(陶唐氏)に遡るという。祖先は、三国呉の揚武将軍陶丹であり、陶丹の子で東晋の大司馬長沙郡陶侃は曾祖父にあたり、祖父の陶茂は武昌郡太守となったというが、詳しい事は不明である[4]。母方の祖父には孟嘉がいる。いずれも門閥が重視された魏晋南北朝時代においては、「寒門(単門)」[5]と呼ばれる下級士族の出身であった。

陶淵明は太元18年(393年)、江州祭酒として出仕するも短期間で辞め、直後に主簿(記録官)として招かれたが就任を辞退する。隆安3年(399年)、江州刺史桓玄に仕えるも、隆安5年(401年)には母の孟氏の喪に服すため辞任。元興3年(404年)、鎮軍将軍劉裕に参軍(幕僚)として仕える[6]。これらの出仕は主に経済的な理由によるものであったが、いずれも下級役人としての職務に耐えられず、短期間で辞任している。義熙元年(405年)秋8月、彭沢県令となるが、80数日後の11月には辞任して帰郷した[7]

以後、陶淵明は隠遁の生活を続け二度と出仕せず、廬山の慧遠に師事した周続之(中国語版)、匡山に隠棲した劉遺民(中国語版)と「尋陽の三隠」と称された。隠棲後の出来事としては、義熙4年(408年)、火事にあって屋敷を失い、しばらくは門前に舫う船に寝泊りする[8]、義熙7年(411年)、住まいを南村に移すも[9]、同年、隠遁生活の同士であった従弟の陶敬遠を喪う[10]、という事があった。この間も東晋および劉裕が建国した南朝宋の朝廷から招かれたがいずれも応じなかった。元嘉4年(427年)、死去。享年63[1]。その誄(追悼文)は、友人で当時を代表する文人顔延之によるものであった。
家族陶淵明と子供の像

陶淵明は太元9年(384年)頃に結婚したが、太元19年(394年)頃に死別した。その後?氏と再婚した。両妻の間に陶儼・陶俟・陶?・陶佚・陶?という5人の子がいた。
逸話陶淵明・『晩笑堂竹荘畫傳』より。絃のない琴を抱えるのは、昭明太子蕭統の「陶淵明伝」に記された故事による。

無弦の琴を携え、酔えば、その琴を愛撫して心の中で演奏を楽しんだという逸話がある[11]。この「無弦の琴」については、『菜根譚』後集8にも記述が見られ、意味を要約すると、存在するものを知るだけで、手段にとらわれているようでは、学問学術の真髄に触れることはできないと記しており、無弦の琴とは、中国文化における一種の極致といった意味合いが含まれている[12]

文学作品

現存する陶淵明の作品は、詩・散文を合わせて130余首が伝えられる。その中でも「田園詩」と呼ばれる、江南の田園風景を背景に、官吏としての世俗の生活に背を向け、いわゆる晴耕雨読の生活を主題とする一連の作品は、同時代および後世の人々から理想の隠逸生活の体現として高い評価を得た。隠逸への希求を主題とする作品は、陶淵明以前にも「招隠詩」「遊仙詩」などが存在し、陶淵明が生きた東晋の時代に一世を風靡した「玄言詩」の一部もそれに当てはまる。しかし、これらの作品の多くで詠われる内容は、当時流行した玄学の影響をうけ、世俗から完全に切り離された隠者の生活や観念的な老荘の哲理に終始するものであった。陶淵明の作品における隠逸は、それらに影響を受けつつも、自らの日常生活の体験に根ざした具体的な内実を持ったものとして描かれており、詩としての豊かな抒情性を失わないところに大きな相違点がある。陶淵明は同時代においては、「古今隠逸詩人の宗」[13]という評に見られるように、隠逸を主題とする一連の作品を残したユニークな詩人として、南朝梁の昭明太子の「余、其の文を愛し嗜み、手より釈く能はず、尚ほ其の徳を想ひ、時を同じくせざるを恨む」[14]のような一部の愛好者を獲得していた。一方、修辞の方面では、魏晋南北朝時代の貴族文学を代表するきらびやかで新奇な表現を追求する傾向から距離を置き、飾り気のない表現を心がけた点に特徴がある。このような修辞面での特徴は、隠逸詩人としての側面とは異なり、鍾エが紹介する「世、其の質直を嘆ず」の世評のように、同時代の文学者には受け入れられなかったが、唐代になると次第に評価されはじめ、宋代以降には、「淵明、詩を作ること多からず。然れどもその詩、質にして実は綺、?にして実は腴なり」[15]のように高い評価が確立するようになる。

陶淵明には詩のほかにも、辞賦散文に12篇の作品がある。「帰去来の辞」や「桃花源記」が特に有名である。前者は彭沢令を辞任した時に書かれたとされ、陶淵明の「田園詩人」「隠逸詩人」としての代表的側面が描かれた作品である。後者は、当時の中国文学では数少ないフィクションであり東洋版のユートピア理想郷の表現である桃源郷の語源となった作品として名高い。他にも自伝的作品とされる「五柳先生伝」や、非常に艶やかな内容で、隠者としての一般的なイメージにそぐわないことから、愛好者である昭明太子に「白璧の微瑕」と評された「閑情の賦」などがある。
著名な作品

飮酒二十首 其五原文書き下し文通釈
結廬在人境廬(ろ)を結びて人境に在り人里に家を構えているが
而無車馬喧而も車馬の喧しき無ししかし来客が車や馬の音にのって騒がしく訪れることもない
問君何能爾君に問う 何ぞ能く爾(しか)ると「なぜそんなことがありえるのか」と問われるが
心遠地自偏心遠ければ 地 自ずから偏なり心が世間から遠く離れているから、住んでいる土地も自然に人少ない趣きにかわるのだ
採菊東籬下菊を採る 東籬(とうり)の下東の垣根の下で菊を摘むと
悠然見南山悠然として南山を見る遠く遥かに廬山が目に入る
山氣日夕佳山気 日夕に佳(よ)し山の光景は夕方が特に素晴らしい
飛鳥相與還飛鳥 相ひ与に還る鳥たちが連れ立って山の巣に帰っていく
此中有眞意此の中に真意有りこの光景に内にこそ、真実の境地が存在する
欲辯已忘言弁ぜんと欲して已に言を忘るしかし、それをつぶさ説き明かそうとすると、言葉を忘れてしまうのだ

訳・解説
※近年刊の全訳注解のみ。


『陶淵明全集』
松枝茂夫和田武司共訳注、岩波文庫(上下) 1990、ワイド版1991・新版2002


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