陶侃
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田舎の匹夫でも互いに付き合えば裏切らないというのに、ましてやそれが大丈夫であるならなおさらであろう」と話した。

劉弘は陶侃に督護を加えると、諸軍と合わせて陳恢を迎撃させた。陶侃は輸送船を軍艦として戦に用いようとしたが、これに難色を示す者がいた。陶侃は「官船を用いて官賊を討つことに、一体何の問題があるというのか」と反論した。陶侃は陳恢と交戦すると、幾度もこれを討ち破った。さらに、皮初・張光・苗光と共に、長岐において陳敏配下の銭端を破った。陶侃の軍は厳粛であり整然としており、戦利品はすべて士卒に分配し、私腹を肥やすことは無かった。
東晋政権に帰順

永興3年(306年)、恩師の劉弘が病死した。間もなく陶侃の母湛氏も病死したため、辞職して喪に服した。喪が明けると東海王司馬越の参軍となった。江州刺史華軼は上表して陶侃を揚武将軍とし、夏口の守備を任した。また、甥の陶臻は江州の参軍に任じられ、同じく華軼に仕えた。だが、華軼は琅邪王司馬睿(後の東晋の元帝)と対立していたため、陶臻は災難を被ることを恐れ、病気と偽り職を辞した。そして、陶侃の下へ至ると「華彦夏(華軼の字)には天下を憂う大志がありますが、大きな才覚はありません。また、琅邪王とは対立しており、まもなく災禍が訪れるでしょう」と語った。陶侃は激怒して陶臻を華軼の下へ送還したが、陶臻は隙を見て東へ逃走して司馬睿の下へ至った。司馬睿はこれを大いに喜んで彼を参軍に任じた。陶侃もまた奮威将軍に任命され、赤幢・曲蓋のある?車・鼓吹を下賜された。これにより、陶侃と華軼は不仲になった。

永嘉5年(311年)、司馬睿の命により、王敦甘卓周訪を率いて河沿いに進軍して華軼を攻撃し、華軼は敗れて討死した。その後、陶侃は龍驤将軍・武昌郡太守に任じられた。当時、天下は大いに乱れており、武昌でも山中の蛮族が長江で船舶を遮り、略奪を繰り返していた。陶侃は諸将に命じて商船に偽装し、山賊を誘い出させた。賊が予想通り接近してくると、数人を生け捕りにした。彼らを尋問すると、西陽王司馬?の配下であることが分かった。陶侃はすぐに軍を派遣して司馬?へ賊を引き渡す様に迫り、自ら兵を率いて釣台に陣地を築いて後続となった。司馬?は止むを得ず配下二十名を縛り上げて陶侃のもとに送り、陶侃はこれを斬り殺した。これにより、水陸の交通は滞りなく通じるようになった。また、陶侃のもとに帰した流浪者が道にあふれたため、陶侃は資財を尽くして彼らに施しを行い、安心して定住できるよう取り計らった。さらに、郡の東に異民族と交易するための市場を設立し、莫大な利を得た。
杜?との攻防

この時期、司馬睿は江州を勢力下に収めていたが、その上流に当たる荊州・湘州の大部分は杜?率いる流民の蜂起によって占拠されていた。司馬睿は陶侃に杜?討伐を命じ、振威将軍の周訪と広武将軍の趙誘をその指揮下に置いた。陶侃は二将を前鋒とし、兄の子である陶輿を左翼に配置して杜?を攻撃し、これを破った。

建興元年(313年)、荊州刺史のは潯水城で杜?の兵に包囲された。陶侃は配下の朱伺を救援として派遣し、杜?は?口まで退いた。陶侃は諸将に対し「賊は必ずや陸路より武昌に向かうであろうから、我は城に還らねばならぬ。昼夜を徹すれば三日で行くことができるが、卿等の中でこの飢えに耐え得る者はいるか」と問うと、武将の呉奇は「もし十日飢えを凌ぐ必要があるならば、昼に賊を撃ち、夜には魚を捕れば、双方とも事足ります」と言ったので、陶侃は「卿こそ勇健なる将軍である」と喜んだ。陶侃は近路を通って迅速に行軍し、武昌に到着すると周囲に兵を伏せた。果して賊軍は兵を増して攻め寄せてきたが、陶侃は伏兵の朱伺らに一斉に反撃させ、これを大破した。これにより輜重を奪い、多数の敵兵を殺傷した。陶侃は参軍の王貢を派遣し、王敦へ戦勝報告をさせると、王敦は「もし陶侯がいなければ、すぐに荊州を失っていたであろう。伯仁(周の字)は荊州に着任した途端に、賊軍に敗れおった。彼がどうして刺史たりえるであろうか」と言うと、王貢は「我らが荊州はまさに多難の時期であり、陶龍驤のほかに治められる者はおりません」と答えた。王敦はこれに同意し、すぐに上表して陶侃を使持節・寧遠将軍・南蛮校尉・荊州刺史に任じた。また、西陽・江夏・武昌の三郡を統治を任せ、沌口を鎮守させた。その後、?口に移った。

陶侃は朱伺を派遣して江夏の賊を討伐させて、彼らを尽く滅ぼした。当時、賊の王沖は荊州刺史を自称し、江陵を占拠していた。参軍の王貢は陶侃のもとへ戻る途上に竟陵に至った時、陶侃の命と偽って杜曾を前鋒大都護に任命し、軍隊を進軍させて王沖を斬り、その衆を尽く降伏させた。

陶侃は杜曾を召喚したが、彼は応じなかった。王貢は偽りの命を下したために罰せられることを恐れ、遂に杜曾と共に反乱を起こした。王貢は沌陽において陶侃の参軍である鄭攀を攻撃して討ち破り、さらに朱伺を?口で破った。陶侃は準備に後退して守りを固めようとしたが、部下の張奕は陶侃に背こうと謀り「賊が至っているのに軍を動かすのは、決して良いことではありません」と偽りの進言をした。陶侃はこれを聞くと心中に迷いが生まれ、兵を留めて時機を待つことにした。だが、しばらくして王貢軍が至ると、陶侃は大敗を喫した。賊軍は陶侃の船に鉤を掛けたが、陶侃は運良く小船に移って脱出することが出来た。さらに、朱伺が苦しみながらも奮戦を続けた為、陶侃はどうにか難を逃れることが出来た。混乱の最中に張奕は賊に投降した。この敗戦により、陶侃は免官を命じられたが、王敦は上表して陶侃を無官のままで職務を継続させた。

陶侃は再び周訪らを率い、進軍して湘州に至った。都尉の楊挙を先鋒として杜?を攻撃し、これを大破した。その後、軍を城西に駐屯させた。陶侃配下のある佐史(刺史の属官)が王敦の下を訪れると「州将である陶君は孤児の身から立ち、次第に名を上げ、その功績を各地に残しました。南夏(荊州)に出征して劉征南(劉弘)を補佐し、前に張昌、後に陳敏という難に遭遇しましたが、陶侃は単独で彼らに立ち向かい、勝利しない戦は一つとして無く、諸々の賊を滅ぼしました。その後、王如が北方を乱し、杜?が南方に跨り、両者は奔走して星の如く一州を駆け、他の郡県は土が崩れるように崩壊しました。陶侃は礼を以って賢者を招き、徳を以って遠方を懐け、子が慕って来るかの如く、人々が続々と集まりました。命が下されると、単独で死地の防衛に当たりましたが、誰一人動じず、誰一人離散しませんでした。軍の統領となると、直ちに湘城に至り、その志は雲霄をしのぎ、機知を一人の力で巡らせました。ただ、その兵は少なく食糧に懸念があり、結果として勝利を告げることができませんでした。しかしながら、夏口へ逃げ帰った杜?が不安から建平の流民等と共に反乱を起こすと、陶侃はすぐに軍を返して長江を遡り、悪人どもを平らげました。荊州の西門は鍵を掛ける必要も無く、中華全土の憂いを取りん除いたのは、陶侃の功績であります。明将軍は荊・楚の民を愍れみ、塗炭の苦しみより救わんと思い、陶侃を派遣して窮した生き残りの者を統率させ、凍える者には衣服を、飢える者には食を与えられましたので、家々は互いに君の温情に喜び、あたかも身に綿を付けているようあります。江浜は孤立して危機にあり、地は険阻ではなく、一軍のみでこの地を固守するのは難しい故に、高所に移って要衝を避けました。賊は我々を軽んじて先に至り、大軍が後に続きましたが、陶侃はこれを幾日も阻み、遂に将帥を討ちました。賊はやがて犬羊の如き者共と結託し、兵を併せて来寇しましたが、陶侃は忠臣の節義を持ち、退いて顧みることは無く、堅い鎧を着け鋭い武器を持ち、身をもって敵に当たりました。将士は奮撃し、命を守らない者はおりませんでした。敵の死者は数えきれないほどになりましたが、賊軍は交互に休み、交互に戦いました。対して陶侃は一軍しか率いておらず、力を尽くしても守りきれず、軍を全うすべきだと考え、機を待ちました。しかしながら、主者は陶侃の責を咎め、重い黜削(身分を下げ、官位を削る事)を加えられました。陶侃は謙虚な性格で、功を挙げればすぐさま身を退き、今受けた物を奉還する覚悟であり、ただそれが遅くなることを恐れております。それがしは取るに足らない者でありますが、彼が罰せられることで、内では道理が失われ、外では賊に敗れるのを恐れます。些細な事でも影響は千里に広がり、荊州の蛮族のさらなる離反を招きます。これにより西の片隅を守る事はできず、『唇亡びて歯寒し』の譬えのように中央に危険を及ぼします。彼らの侵略に限りはありません」と懇願した。これを聞いた王敦は上奏して、陶侃の官職を復活させた。

杜?は王貢に三千の精鋭を与えて武陵に出撃させた。王貢は五渓蛮を誘い、船団をもって官軍の水路を断ち、すぐさま武昌へ向かった。陶侃は鄭攀と伏波将軍の陶延を夜中に巴陵へ行軍させ、奇兵を用いて敵の不意を衝き、これを大破した。千人余りの首を斬り、一万人余りを降伏させた。王貢は湘城へ撤退した。反乱軍の内部では不和が生じ、杜?は張奕を疑ってこれを殺害した。彼の部下たちは益々不安に駆られ、降伏者は日増しに増えた。

王貢が再び来寇してくると、陶侃は遠くから彼へ「杜?は益州の小役人に過ぎないのに、官庫の金銭を盗用し、父が死んだにもかかわらず喪に駆けつけなかった。汝は本来常識をわきまえた人であるのに、何故あのようなでたらめな者に従うのか。この天下において、天寿を全う出来た反徒がいたと思うか」と語った。王貢は最初馬の背上にて脚を横に架け、傲慢で無礼な態度を取っていた。だが、陶侃の言葉が終わると、王貢は粛然として脚を下へ着けて姿勢正しく座り、言動や顔色は甚だ従順であった。陶侃は彼の心が動いたと知ると、再びこれを説得し、髪を切って誓いを立てると、王貢は遂に降伏した。杜?は王貢の降伏を知ると大いに驚き、一目散に敗走した為、陶侃は軍を進めて長沙を攻め落とし、将軍の毛宝・高宝・梁堪らを捕らえた後に帰還した。杜?の乱は遂に平定された。
広州へ左遷

乱が平定されると、王敦は陶侃の功績を深く妬むようになった。陶侃は任地の江陵に帰還する前に、王敦の下を訪れて別れの挨拶をしようとした。皇甫方回と朱伺らはこれを諌め、行かぬよう進言したが、無礼に当たるとして陶侃はこれに従わなかった。果して王敦は陶侃を拘留して返さず、広州刺史・平越中郎将に左遷し、代りに従弟の王?を荊州刺史に任じた。荊州にいた陶侃の属官・将士達は王敦の下を訪れて陶侃の留任を請願したが、王敦は怒ってこれを許さなかった。陶侃配下の鄭攀・蘇温・馬儁等は南下に同意せず、遂に西の杜曾を迎えて王?の荊州入りを拒んだ。王敦はこれを陶侃の意思と思い、甲冑を纏って矛を持つと、陶侃を殺そうと思った。だが最後の決断が出来ず、何度も陶侃の下へ赴いては何もせず戻った。陶侃は厳粛となって「使君は剛毅果断であり、まさに天下をも裁く事ができるのに、この程度の事を決断することが出来ないのですか」と挑発し、立ち上がって便所に行った。諮議参軍の梅陶や長史の陳頒は王敦へ「周訪と陶侃は姻戚関係にあり、まさしく左右の手のようであります。左手を切ったときに、右手が反応しないことがありましょうか」と言うと、王敦は考えを改め、盛大な餞別の宴会を設けて陶侃をもてなした。陶侃はその夜すぐに広州へ出発した。また王敦は陶侃の子陶瞻を自分の下に留めて参軍に抜擢した。陶侃は豫章に到着した時に周訪に出会うと、涙を流して「汝の外援が無ければ、我の命は風前の灯であったであろうな」と謝した。その後、軍を進めて始興に到着した。

これより以前、広州の人々は刺史の郭訥に背き、長沙出身の王機という者を迎えて刺史に擁立していた。王機は使者を王敦のもとへ派遣し、交州刺史の位を求めたが、王敦がこれを許しても出発しようとしなかった。当時、杜?の残党である杜弘が臨賀に拠っていたが、王機は杜弘に降伏を乞い、杜弘へ広州を取ることを勧めた。杜弘はこれに従い、遂に温邵と交州の秀才である劉沈と共に謀反を起こした。このため、ある者が陶侃にしばらく始興に止まり、形勢を観察するよう進言したが、陶侃はこれに従わず、すぐさま広州に向かった。杜弘は偽装投降により奇襲を目論むが、陶侃はこれを見抜き、先に封口という地に発石車を配置しておいた。杜弘は軽兵を率いてやって来たものの、陶侃に備えがあるのを知って退却し、陶侃はこれを追撃して破り、劉沈を小桂で捕虜とした。また配下の許高に命じて王機を討たせ、これを斬首し、首級を都に送った。諸将はみな勝ちに乗じて温劭を攻撃するよう求めたが、陶侃は笑って「我の威名はすでに知れ渡っており、改めて兵を動かす必要はあると思うかね。そうしなくとも1枚の書物で解決させることができるであろう」と言い、書面を以って温邵を諭したところ、温邵は恐れをなして逃走し、これを追って始興にて捕らえた。この功により柴桑侯に封ぜられ、食邑は四千戸となった。

大興元年(318年)、陶侃は平南将軍に任じられた。しばらくして都督交州諸軍事を加えられた。

永昌元年(322年)、王敦が挙兵して謀反を起こした。3月、朝廷は詔を下し、陶侃の職務はそのままに江州刺史を兼任させ、やがて湘州都督・湘州刺史に転任した。王敦が建康を陥落させると、朝政を牛耳るようになり、陶侃を広州刺史に戻し、散騎常侍を加えた。

賊の梁碩が交州刺史の王諒を殺害すると、陶侃は将軍の高宝を派遣してこれを平定した。朝廷は命を下して陶侃に交州刺史を兼任させ、また前後の功績により次子の陶夏は都亭侯に封じられ、陶侃は征南大将軍・開府儀同三司に昇進した。
荊州へ復帰

太寧3年(325年)、王敦の乱が平定されると、明帝は同じ過ちを繰り返さない為、一方面で?亮を重用し、?鑒らには王導の権力を抑え込ませた。


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