陶侃
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さらにある時、人相見の師圭という人物が陶侃へ「君の左手の中指に縦の筋があるのは、まさに公爵に登る証しである。もしもこの筋が上まで突き通っていれば、君の高位は言う事ができない程にまで至ったであろう」と言った。陶侃は針を突き刺し、流れ出る血を壁に押し付けると、「公」という字が出来た。紙の文袋に手を付けると、「公」という字がはっきりと映し出されたという。

後に陶侃は八州都督に昇って上流に鎮し、強兵を擁することになった。密かに建康を狙う心も有ったが、その都度、翼が折れた夢を思い出し、自制してその考えを止めたという。
双鶴衝天

陶侃が母の喪に服していた時、二人の客が弔問に訪れたが、哭礼せずに退室した。その後、彼らは二匹の鶴となり天高く飛んで行った。当時の人はこれを不思議なことだと言いあったという。
陶母責子

陶侃は尋陽県の役人時代、漁に関する仕事としていたことがあった。彼は使者を派遣し、母へ塩漬けの魚の干物を一缶送った。すると母は、それをそのまま送り返し、手紙で「県の役人になったのをいいことに、主君の物を私に送り届ける様なことをして、私が喜ぶと思うのですか。私の憂いが増えるだけです」と、息子を叱責した。

それ以降、陶侃はどんな職務においても清廉な役人として職責を果たし、人々から賞賛を受けた。そして後に征西大将軍に昇り、長沙郡公に封じられた。
血縁

子は16人おり、陶洪・陶瞻・陶夏・陶g・陶旗・陶斌・陶称・陶範・陶岱の9人が記録に残る。甥に陶臻・陶輿がいる。詩人の陶淵明は曾孫とされる[5]
評価

尚書の梅陶は親しい曹熾に書を送った時「陶公の神のような機略と優れた見識は魏武(曹操)の如しである。忠順にひたすら勤労に励んだことは諸葛孔明のようである。陸抗を始めとした諸々の人物でも彼に及ばないであろう」と絶賛した。

謝安はいつも「陶公は法をうまく用いるが、常に法にとらわれない考えも持ち合わせていた」と述べた。世の人々が彼を重んじていたのはまさにこのようであった。

史臣曰く「古の賢王は建国に際して、国境を定めて九州に分け、功績を上げる方策を各地方の長官に問うたという。それにより政治は安定し、教化は広く行き渡ることとなったのである。また、連率(一地方の諸侯をまとめて統率する長官のこと)の儀礼を備えることで、威勢は国境の外にまで至り、法の公布を全うしたことで、繁雑な礼式を整理する事ができたのである。さらに、才ある者を抜擢して職務を任せることで、人々は徳を慕って「甘棠の歌」(召公の善政を称え、召公が腰掛けていた甘棠の木の前で民衆が歌った賞賛の歌)を歌いあうようになるが、逆の政治を行うと、人はわずかの間に恨みの声を広めるのだ。まさに当時は乱世であり、中央から遠く離れた土地は多くが険しく、各人が符節を分け持って争ったので、天下の綱紀は大いに乱れた。陶侃は家柄が代々世禄を受ける家ではなく、その習俗も中央のものとは異なっていたが、村里の中より抜きんでた才覚を示し、当時の優秀な人物の列に肩を並べ、ついには身分を飛び越えて外相となり、長江の上流地域を統べるに至った。恩恵を広く行き渡らせて辺境の地を懐柔したので、城は警備するのに拍子木を必要とせず、位を捨てて主君を救うことにより、崩れかけた帝業は再び安寧を取り戻した。?亮は外戚という崇敬を受ける身であっても、その胸の内を抑えて陶侃に拝謝し、王導は宰相の高位に居る身であっても、不愉快ながらも彼の言葉に従った。また彼は自分の望みに限度をわきまえており、その筋目は明らかであった。時に兵士が雲のように集まり、富は天府のものを越え、彼は密に心に秘めた志があったが、翼が折れる夢を顧みたのは、道理に外れているからである。孔子はかつて「人は完全を求めてはならない」と言ったが、彼が夢を見た逸話もこの言葉の正しさを証明している」。

房玄齢曰く「陶侃は勤王の士であり、先鋒部隊を自ら率いてよく戦場を駆け巡った。文・武・忠の三つを良く遵守し、天下を一つにまとめるという功績を打ち立てた。彼の才能は舟航だけにとどまらないのだ」。
脚注^ 『晋書』巻7, 成帝紀 咸和九年六月乙卯条による。
^ 張維安・劉大和 編『客家映臺灣:族群文化與客家認同』桂冠、2015年12月16日、110-111頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 9789577306371。https://web.archive.org/web/20220104100621/http://hs.nctu.edu.tw:3000/lau7_su1_tiau5_bok8_uploads/1620876779edd975.pdf。 
^世説新語』によると、陶侃は温?を始めとした北来の将軍からは陰では「渓狗」といって軽蔑された。ただし、『晋書』には彼が五渓蛮出身であるという記載は無い。
^ 『晋書』陶侃伝では咸和7年(332年)と記載されている。
^ 陶淵明の祖父とされる陶茂は『晋書』の陶侃伝には記録されていない。

参考文献

晋書』巻六十六・列伝第三十六

資治通鑑』巻八十五 - 巻九十五

関連項目

頼杏坪

運甓居

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