この項目では、中華民国の政治家について説明しています。明の外交官については「陳誠 (明朝)」をご覧ください。
中華民国の政治家陳 誠Chen Cheng
1959年
生年月日1898年1月4日
出生地 清 浙江省処州府青田県高市郷
(現:麗水市青田県高市郷)
没年月日 (1965-03-05) 1965年3月5日(67歳没)
死没地 中華民国 台湾省台北市大安区
出身校保定陸軍軍官学校砲科
所属政党 中国国民党
称号 青天白日勲章
ペルー太陽勲章
配偶者?舜?
譚祥
陳 誠
職業:政治家・軍人
各種表記
繁体字:陳 誠
簡体字:? ?
?音:Chen Cheng
ラテン字:Ch'en Ch'eng
和名表記:ちん せい
発音転記:チェン チョン
英語名:Chen Cheng
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陳 誠(ちん せい、チェン・チョン、1898年1月4日〈光緒24年12月12日〉 - 1965年〈民国54年〉3月5日)は、中華民国の政治家・軍人。国民革命軍陸軍一級上将。日中戦争と国共内戦における政府、軍、党の首脳部の一人で、胡宗南系、湯恩伯系と並ぶ中央軍三大派閥の一つ「土木系」を形成した[1]。国共内戦後に台湾に移ってからは中華民国行政院長、副総統を歴任した。?介石政権で土地改革計画立案を支援し、その業績は死後も評価されている。字は辞修。 元秀才で教師・陳希文の長男。幼少期より病弱であり、畑仕事を手伝うことで多少体力が向上したものの、成人後も度々病気に悩まされ続けた。1918年(民国7年)、母方の叔父の紹介で杭州体育専門学校に入学するも1年で卒業。その後杭州に留まり進路に悩んでいたところ、父の友人で軍人の杜志遠が北洋政府議員当選の折に杭州を訪れる。彼と対談した陳は軍人を志すようになり、保定陸軍軍官学校を受験。一旦体格検査で落とされたが、杜志遠の後継で陸軍部軍学司司長となった魏宗翰が主試官を務めたため、彼の計らいで1919年(民国8年)保定軍校第8期砲兵科入学。入学にあたり、南苑の第9師砲兵団で9か月の基礎訓練を受けた。また同期の羅卓英、周至柔と義兄弟の契りを結ぶ。そんな中、1920年(民国9年)7月に安直戦争が勃発し軍校は休校。その間広州に赴き、新建粤軍第一師第三団にて勤務。またこの時、中国国民党に加入している。まもなく復学し、1922年(民国11年)6月卒業。紹興城県学宮に駐屯する浙江軍第2師第6団第3連にて見習士官をしていたが、翌年春、同期で粤軍に渡り第1師第3団第3営の連長をしていたケ鳴漢上尉の誘いで再び粤軍に赴く[2]。陳は第3団の副官となり、階級も中尉となった。当時の師長はケ鏗、団長はケ演達であった。間もなく上尉、そして連長となり大元帥府の警備にあたる。5月、沈鴻英の桂軍討伐を命じられ、肇慶市にて桂軍第2師(長:ケ瑞徴
青年期
1924年(民国13年)に?介石を校長とする黄埔軍官学校に来校、教育副官となる。なお、参加者は革命精神の表れとして一階級降格することになっており、陳誠は少校から上尉になった[3]。10月14日、広州商団団長・陳廉伯の反乱鎮圧に参加。その後、1925年1月15日に陳炯明駆逐のため|第一次東征命令が下ると黄埔軍校の教官及び生徒は「教導団」として参加する事になり、2月1日に総動員令が下ると次々と戦場に赴いて行った。陳誠は砲兵第1営と軍校学生総隊とともに2月3日午前8時、黄埔軍校を出発、黄埔港より福安に乗船し東莞へと向かった[4]。14日、淡水(現恵州市恵陽区)での戦闘に参加。3月までに第一次東征は完了した。しかし5月、楊希閔・劉震寰が反乱を起こし、広州を占領。?介石は粤軍と教導団を広州奪還に進めた。6月12日午前0時、広東工団や民衆による自警団も加わり広州総攻撃を敢行、劉と楊は香港に遁走し、同日のうちに広州を奪還した。しかし、兵士たちは連日の戦闘で疲弊しきっていた。その隙を突き、胡思舜率いる恵州の?軍第3軍はひそかに反撃に転じようとしていた。白雲山にいた陳はこれを察知しすぐに応戦[5]、粤軍と教導団は14日までに第3軍を広州から駆逐した[6]。?軍・桂軍の残党駆逐に燃える?介石は第二次東征の実行を決意。7月、国民政府が設立され、また粤軍と教導団が合併し、国民革命軍が成立した。10月には?軍第3軍の拠点であった恵州城への攻撃命令が下される。陳誠は敵機関銃陣地に徹底して砲撃を加え、大きく貢献した。 東征において卓越した指揮振りを発揮した陳誠は、1926年5月以降教職や参謀職として前線を離れる。しかし7月には粤軍に来た当初の上官だった予備第1師師長・厳立三の推薦で現場に戻り、同隷下第3補充団団長となる。12月の北伐開始を控え、予備第1師は第21師に改編、12月には華中の戦線に投入された。討賊聯軍(直隷派・呉佩孚軍閥)との戦闘で引き続き厳立三の配下として昇進を重ね、翌年4月に第21師長となる。国民革命軍では異例の大隊長から師長(師団長)にわずか1年半で昇進した。しかし、5月下旬に病で倒れ、上海宝隆医院で療養を強いられる。直魯連軍(孫伝芳・張宗昌連合軍)が徐州に迫っていると聞くや病を押して指揮に向かうが、3か月の攻防の末敗退[7]。
軍人としての出世