陳誠
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直魯連軍(孫伝芳張宗昌連合軍)が徐州に迫っていると聞くや病を押して指揮に向かうが、3か月の攻防の末敗退[7]。勢いを増した直魯連軍は87万の軍勢を引き連れ、8月中旬には南京に迫りつつあった。陳誠はなおも病に苦しむ中再び指揮を執り、26日、棲霞山にて敵の包囲網を突破。30日払暁、第21師は黄龍山奪還を開始し、数時間後には859高地および854高地を掌握、午後3時までに黄龍山全域を制圧した[8]。31日、直魯連軍は秦淮河に追いやられ、多数の溺死者を出して敗退した。その後、蘇州にて部隊の立て直しに取り組む。厳立三が軍政庁庁長となったことを機に現場を離れ、軍政庁での仕事に就く。北伐完了後、第17軍から縮小再編された第11師の副師長を経て師長。のち18軍軍長(中国語版)に昇進。土木系の「土木」とはこの「十一」と「十八」を組み合わせたものである[9]
剿共作戦

中原大戦での功績から1931年(民国20年)初、紅軍掃討を命じられた陳誠は、紅軍の主力部隊との戦闘で大きな損害を蒙りながらも第5回作戦で紅軍を撃破、長征の原因となった。紅軍への包囲戦は西安事件まで継続された。
日中戦争

12月の南京陥落後、国民政府は武漢に逃れた。1938年(民国27年)、陳は武漢衛戍総司令に任ぜられる。また、第二次国共合作により新設された政治部部長となる。政治部には賀衷寒(中国語版)(第1庁庁長)、康沢(中国語版)(第2庁庁長)ら藍衣社系[10]張諮カ(副部長)らCC団系[11]といった国民党右派、黄h翔(副部長)ら第三党、周恩来(副部長)、郭沫若(第3庁庁長)ら共産党など様々な勢力が集められていた。特に第3庁では胡愈之(中国語版)(第5処処長)、田漢(第6処処長)、馮乃超(中国語版)(第7処第3科科長)、賀緑汀(中国電影制片廠音楽科科長)など左派芸術家が多く所属しており、彼らの強みであった大衆動員性を利用してのプロパガンダ戦略を展開した。また第1庁・第2庁は三民主義青年団朝鮮義勇隊の設立などにも関わり、武漢周辺での非正規戦を展開した[10]

6月武漢会戦指揮のため陳誠は湖北省に移動した。陳誠による反撃も行われたが同年10月25日に日本軍により占領された。その後、陳誠は長沙会戦、棗宜会戦、及び鄂西会戦の指揮をとっている。1943年にはビルマ地区への中国遠征軍指揮官に任命されたが、病気を理由に衛立煌と交代された。
国共内戦

日中戦争後、陳誠は参謀本部参謀総長として?介石に従い国共内戦の軍事行動を指揮、共産党軍の設定した解放区への攻撃に着手した。1947年(民国36年)には中国国民党軍を指揮するために満洲に移動したが、共産党軍の前に150万以上の兵力を喪失するなどの敗戦を重ね、1949年(民国38年)に解任されている。

彼の生み出した派閥はしばしば国共内戦中の人事に混乱をきたした。例えば1948年、第12兵団の新設にあたり、司令官に18軍軍長の胡l(中国語版)が推薦されたが、陳誠と対立する白崇禧はそれに難色を示していた。?介石は仕方なく参謀次長の林蔚(中国語版)を上海で療養中の陳のもとに派遣し、彼の意見を聞いた。陳は黄維(中国語版)を推薦した。すると、今度は同じく陳誠と対立する何応欽が賞勲の少なさを理由に反対。唯一参謀総長の顧祝同が賛成したことでようやく黄維が内定した[12]
台湾での活動アメリカのケネディジョンソン正副大統領と

1949年(民国38年)、日本より接収した台湾への軍政施行のため、?介石は陳誠を台湾省政府主席に任命した。陳誠は「人民至上、民生第一」を宣言。同年6月の貨幣改正、工商業の扶植、土地改革などを実施した[13]。国民党政府が遷台した後は、国民党副総裁、中華民国副総統、及び行政院長などの要職を歴任し、土地開拓、経済改革および台湾再建に関する政策を実施した。

1965年(民国54年)に肝腫瘍のため死亡。遺灰は陳誠記念館のある台北記念公園に収められた後、1995年8月高雄県の佛光山に移された。
年譜義兄弟の羅卓英(左)、周至柔(右)と(1930年)南寧にて白崇禧(左)、李宗仁(右)と(1936年10月10日)

1919年6月 - 入伍期間満了、保定軍官学校入学

1920年 - 新建粤軍第1師第3団にて勤務

1921年10月 - 復学

1922年6月 - 卒業、浙江軍第2師第6団第3連(駐屯地:紹興城県学宮)見習官、少尉

1923年

3月 - 粤軍第1師第3団中尉副官、のち上尉連長

5月 - 肇慶の戦いに参加、負傷

9月 - 第3団第1営(長:厳立三)補充連(のち第4連)長、砲兵独立連長


1924年

3月 - 上尉特別官佐、教育副官、校軍砲兵第1営(長:蔡忠笏)第1連連長


1925年

2月3日 - 午前8時、黄埔軍校を出発、黄埔港より福安に乗船

2月4日 - 東莞着、右翼軍に編入

2月13日 - 淡水に展開

2月14日 - 淡水の戦いに参加

6月12日 - 砲兵営副営長兼第1砲兵連連長

10月8日 - 恵州城の戦いに参加

10月15日 - 砲兵第2営営長[14]


1926年

5月 - 軍校砲兵科科長

6月5日 - 中校、国民革命軍総司令部参謀

7月31日 - 予備第1師(長:厳立三)第3補充団長

11月 - 予備第1師第3補充団、第21師63団に改編


1927年

2月下旬 - 第21師副師長

4月8日 - 第21師師長

9月 - 第3師師長

10月 - 軍事委員会軍政庁副庁長兼軍政庁駐滬弁事処主任

11月 - 兼上海兵工廠整理委員会委員(廠長:石瑛

12月 - 軍政庁庁長代理


1928年

3月 - 兼教育処処長兼北伐軍砲兵集団指揮官

7月4日 - 少将、第11師(長:曹万順)副師長

12月18日 - 第11師特別党部監察委員[15]


1929年

6月 - 第11師師長


1930年

3月 - 蚌埠戒厳司令

4月 - 討逆軍第二軍副軍長

8月 - 第18軍軍長


1934年

5月8日 - 廬山軍官訓練団主任(6月4日副団長)[16]

10月29日 - 駐?綏靖予備軍総指揮[17]


1935年

3月1日 - 軍事委員会委員長武昌行営(主任:張学良)陸軍整理処処長

4月4日 - 中将

4月9日 - 廬山暑期訓練団準備主任

5月23日 - 陸軍整理処軍官教育団団長[18]

7月下旬 - 峨嵋訓練団教育長

10月10日 - 宣昌行営参謀長[19]


1936年

3月25日 - 第1路剿匪軍総指揮

9月25日 - 広州行営参謀長

9月26日 - 上将心得中将

11月27日 - 武漢行営副主任兼参謀長

12月2日 - 軍政部常務次長

12月12日 -西安事件にて拘束される


1937年 - 軍政部政務次長兼武漢行営副主任

1938年

1月12日 - 政治部部長、武漢衛戍総司令


栄典

国民革命軍誓師十周年紀念勲章 - 1936年7月9日
[20]

一等雲麾勳章 - 1936年11月12日[21]

青天白日勲章 - 1943年鄂西會戰有功

家族

1918年に中学校の同級生・呉子?の妹の呉舜蓮と結婚、杭州体育専門学校の学費を支えるなど当初の夫婦仲は悪くなかった。しかし軍務で疎遠となり離婚した[22]。のち1932年元旦に譚延?の娘の譚祥と再婚した。長男の陳履安も政治家となった。

一族は代々農家であった。

高祖父:陳生善

曽祖父:陳貴芬

祖父:陳錦雲

叔父:陳一鵬

父:陳希文 - 杭州初級師範学校卒業、青田県初級小学校長、1924年死去

母:洪氏、1953年8月台北市にて死去[23]

長弟:陳源(字:正修)

長弟:陳敏(字:強修)

妹:陳金花

出典^ 松田康博「論文 台湾の政軍関係 -- 政戦系統の役割を中心に(1950-83年)」『アジア経済』第43巻第2号、日本貿易振興会アジア経済研究所、2002年2月、26-47頁、doi:10.20561/00041688、.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}hdl:2344/00007922、ISSN 0002-2942、2023年1月26日閲覧。


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