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陳炯明
プロフィール
出生:1878年1月13日
(清光緒3年12月11日)
死去:1933年(民国22年)9月22日
イギリス領香港
出身地: 清広東省恵州府海豊県
職業:政治家・軍人
各種表記
繁体字:陳炯明
簡体字:?炯明
?音:Chen Ji?ngming
ラテン字:Ch'en Chiung-ming
和名表記:ちん けいめい
発音転記:チェン ジョンミン
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陳 炯明(ちん けいめい)は、中華民国の政治家・軍人。広東派の指導者である。
人物
政治家から軍人へ辛亥革命で循軍が掲げた藍白井字旗(中国語版)。井の字は井田制を表している[1]。のち中国致公党党旗にもなる
清末の1898年に秀才となり、1906年に広東法政学堂(中国語版)入学、同学の鄒魯と交流を持つ。1908年7月に首席で卒業後[2]、帰郷して海豊地方自治会の運営に参加。「陸安自治報」(のち「海豊自治報」と改称)を発行した[3]。1909年に広東咨議局(中国語版)議員に当選し、広東省自治に携わった。咨議局では、賭博禁止、城・鎮・郷レベルでの地方自治確立、女子教育の必要性を主張[4]。一方で同年に中国同盟会に参加したと言われ、1910年2月に倪映典(中国語版)の庚戌新軍起義(中国語版)(第二次広州起義)に参加するも失敗、香港に逃れ劉師復(中国語版)のアナーキスト系組織支那暗殺団に加わる。1911年の黄花崗起義(第三次広州起義)では敢死隊第四隊隊長を務めるが、軍事蜂起にためらいを感じ、再び香港に逃亡する[4]。辛亥革命では東江地区の蜂起を任され、11月1日、海陸豊(中国語版)で流浪的な農民、手工業者、緑林、会党などを集め「循軍」を組織し淡水の警察署を襲撃。11月9日、恵州を制圧すると、循軍を7個旅団に再編、改めて総司令に就任した[1]。29日、広州に到着、12月22日、広東副都督として広東省の軍事面の統治に関わったが、同月に都督の胡漢民が孫文に随行し南京に赴いたため不在となる。省議会や孫文からも代わって都督就任を要請されたが固辞し、都督代理に留まった[5]。
在任中、自身の部隊を中心に正規軍たる広東陸軍(粤軍)の新規編成とともに、民軍の粛清に乗り出した。民軍は広州掌握時には循軍を含め51支隊15万人を数え、自ら広東軍団協会会長を務めていたが、革命後はもはや用済みの存在で、革命に功績はあれど無頼漢ばかりの彼らの存在は、広州の治安を脅かしていた。陳は民軍の武装解除を徹底し、抵抗すれば容赦なく弾圧した。特に恵軍は3日間にわたって抵抗を続け、司令官の王和順(中国語版)は香港に逃走、参謀の陳聴香(中国語版)は処刑された。犠牲者の中には黄花崗起義の参加者の一人であった許雪秋や古参同盟会員であった黄世仲(中国語版)もおり、余りの苛烈さに省議会からも「臨時約法違反だ」と批判の声が上がるほどだった[6]。省議員の一人温雄飛(中国語版)も後年に当時の陳を「殺人魔王だ」と批判している[6]が、これらの粛清は革命後に起こりがちな混乱の克服と秩序の維持を結果的にもたらしたため、称賛する声もあった[7]。
そんな中、南京臨時政府崩壊により戻った胡漢民が12年4月に都督に再就任すると、陳は香港に去り不満の意を示した[7]。慌てた省議会は陳を軍統に任じて呼び戻し、胡が政治面、陳が軍事面で統治する「軍民分治」を行う事として対立を回避した。しかし、袁世凱が同じく「軍民分治」を掲げ地方に介入すると、胡漢民は対抗して「軍民共治」を掲げ、再び両者の関係は危うくなった。この対立を利用しようとした袁世凱は1913年6月、胡を解任、陳を都督に据えた。孫文と黄興は陳を説得し、辞令を承諾する一方で、来るべき袁世凱打倒に向け広東の軍事力強化を求めた[8]。
同年7月、李烈鈞、黄興、陳其美らが次々に反袁世凱と独立を掲げ蜂起する(第二革命)と、陳も呼応し7月18日、広東の独立を宣言するが、海軍の離反などもあり広東鎮撫使・竜済光に敗北したため8月4日、香港に逃れる[8]。その後シンガポールを経由し、フランスなどに外遊。ここで社会主義思想に触れる。 1914年に孫文が結成した中華革命党には参加せず、黄興を支持する欧事研究会に加わっている。護国戦争が起こると1916年1月、広東に戻り、淡水にて「広東都督兼討逆共和軍総司令」を名乗った。この時、アメリカ的連邦制を志向した再興プランを掲げており、のちに主張した聯省自治の原型と言える[9]。しかし、護国軍側に付いていた旧広西派軍閥の陸栄廷に出し抜かれ、恵州に留まらざるを得なかった。討逆共和軍は広東省長朱慶瀾により広東省警衛軍として広東軍に組み込まれた。 1917年6月、西南軍閥との野合である護法運動の中で、革命派軍人として陳の影響力を期待した孫文は、陳を上海に呼び寄せ、協力を申し出る。陳は広東政府(護法軍政府)に参加、軍政府第一軍総司令に任ぜられるが、広東陸軍は当時広東を支配していた旧広西派軍閥に握られており、名ばかりの官職であった[10]。12月、段祺瑞に対抗すべく福建省制圧を任ぜられ、朱執信
?州は?南のロシア
その頃、援?粤軍を除いては海軍と元帥府の親軍しか軍事的基盤を持っていなかった孫文は、クーデターを起こし権力の掌握を図った。1920年8月、孫文の命を受けた陳は広東に急行し、交戦(第一次粤桂戦争(中国語版))の末、11月に旧広西派軍閥を駆逐し広東省を掌握。孫文の広東省における勢力基盤を軍事面から援助した。孫文は?介石への手紙で陳炯明の功績を「実に全身の気力を振り絞った成果であり、党のため、国家のために尽くした。