陳水扁
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2006年10月9日、陳水扁は中華民国国慶日式典に出席するため訪台した日華議員懇談会のメンバーと会見し、その席で北朝鮮が同日に地下核実験を実施したことを強く非難するとともに、日本アメリカとの軍事交流を強化して、両国と準軍事同盟を構築する必要性を強調した[5]
スキャンダル陳水扁退陣を求める「紅衫軍」

2005年8月、高雄捷運における陳哲男のスキャンダルが表面化する。前総統府秘書長陳哲男が業者の招待を受けて海外旅行したというものであり、清廉さを謳った陳政権にとって初めての打撃となった。立法委員の邱毅によるスキャンダル追及が続き、台湾メディアで長期にわたり注目された。

続いて2006年5月25日、陳水扁の娘婿である趙建銘のスキャンダルが表面化する。台湾土地開発公司の不正取引に関する内容であり、台北地方法院は証拠隠滅のおそれがあるとし身柄拘束の上、接見禁止を決定した。また妻・呉淑珍に対しても百貨店太平洋崇光の商品券の受け取りおよびインサイダー取引も浮上し陳水扁の政局運営に重大な被害を与えた。これを受けて5月31日に陳水扁は職権を除き与党の運営や選挙活動から手を引くと宣言した。

さらに同年11月3日、呉淑珍が検察当局から総統府機密費1480万台湾元を私的流用していたとして、汚職と文書偽造の罪で起訴された。起訴によって陳の退陣を求める声が野党や中間層だけでなく与党民進党内部からも噴出した。民進党の友好政党だった台湾団結連盟も総統罷免案が提出された場合賛成する意向を表明し、陳は窮地に追い込まれた。こうした中で陳は11月5日に記者会見を開き、機密費の私的流用疑惑を否定した上で、裁判の一審で呉に有罪判決が出た場合総統を辞任する意向を表明したが、与野党・世論の不信を払拭するまでには至らなかった。
台湾正名政策2006年、台湾スポーツ・エリート・アワードで開会スピーチを行う陳水扁

陳政権の二期目では、台湾正名政策を加速度的に進め、公的機関などで使用されている「中国中華 (China) 」という呼称を「台湾 (Taiwan) 」へ置き換えるようになった。2007年2月12日、台湾の郵便事業を行う「中華郵政」の名称を「台湾郵政」に変更した(しかし馬英九政権になった2008年8月に「中華郵政」に戻すことが決定された)。同時に「中国造船」は「台湾国際造船」、「中国石油」は「台湾中油」と改称された。

また「去?化」も推進された。2006年9月6日に、?介石の名前である「中正」(介石は)を冠した「中正国際空港」の名称を「台湾桃園国際空港」に変更した。さらに、2007年5月19日に「中正紀念堂」を「台湾民主紀念館」に改めたが、こちらは立法院に否決され、6月7日に元の名称に戻った。
支持率低迷と2008年立法院選挙

前述のスキャンダルの影響もあり、陳の支持率は低迷した。2008年1月12日立法院選挙では民進党主席として挑んだが、定数113議席のうち27議席しか得られず、81議席を得た国民党の大幅なリードを受けて「党創設以来、最大の惨敗」と述べ、党主席を引責辞任する。
両岸関係と外交政策

陳は本来、台湾独立の傾向が強い人物であるが、強本西進を掲げ、一期目の就任演説では「四つのノー、一つのない」の原則を打ち出し、任期中の台湾独立に繋がる国号変更などは行わないことを明言していた。しかし、前年に反分裂国家法が制定されたことから2006年春節の演説では国家統一綱領国家統一委員会の廃止の可能性および国際連合に「台湾」名義での加盟申請に言及した。これは前述の原則の「一つのない」に違反するものであるとして、野党泛藍連盟から強烈な批判を受けた。また、アメリカ国務省1月30日のレポートも、陳水扁の春節発言に対し「一つの中国政策は変更されない」と現状維持の要望を表明した。2006年2月27日、陳は国家統一委員会と国家統一綱領の運用停止を発表し、中国からの強い反発を受けた。

2007年5月10日、陳水扁は記者団に対し、中国共産党中央委員会総書記胡錦濤に台湾訪問の正式要請を行ったことを明らかにした。今回の要請の目的が、台湾と中国の両政府の直接対話にあるため、従来の「台湾は独立した国家で中国の一部分でもなければ、一地方政府でもないことを認めよ」というような前提条件を付けていないことも表明し、胡主席に「台湾の現実を理解してほしい」と言いたいとも話した。台湾と中国の統一には東西ドイツの統一モデルを参考にしたいとし、中国側に参考にしてもらいたいとの希望を語った[6]

同年10月10日に久しく行われていなかった軍事パレードを開催し、独力で開発した最新兵器を披露して中国政府を牽制した。スピーチでは「中国と台湾はそれぞれ独立した国であり、これは否定しようのない事実である」と発言した。

2001年1月1日より「小三通」と称し、廈門金門島の間で客船が運航され中国との三通を限定的に実行し、その後さらなる両岸貿易促進が熱望されていたが、陳水扁政権内では実現しなかった。また、中国進出に代わる政策として「南向政策」を発表、台湾企業に対し東南アジア諸国への投資を要望した。2006年1月1日には中国との経済関係を「積極開放、有效管理(政府が積極的に開放することで効果的な管理をする)」から「積極管理、有效開放(政府が積極的に管理することで効果的な開放をする)」への転換を明言した。
総統退任後の逮捕・公判
逮捕

2008年5月20日に総統を退任し、憲法が保障する総統の不起訴特権がなくなったことから、検察当局が陳水扁による私的流用疑惑の本格的な捜査を開始すると発表し、陳に対し出国制限措置がとられた。

さらに、台湾のマスコミによって、不明の資金をスイスなどに送金し蓄財しているという資金洗浄が新たに浮上し、同年8月15日陳は妻とともに民進党を離党した。18日には、陳の海外渡航禁止措置がとられた。

同年11月11日、総統府機密費流用及び資金洗浄容疑などにより台湾最高検に逮捕され、台北地方法院に移送された[7]

移送の際、陳は手錠を頭上に掲げ、拘束を馬英九政権による「政治的弾圧」だと訴えるとともに、連行時に暴行を受けたと主張したが、病院で診察の結果問題はないと判断され、台北地方法院は12日に勾留を決定、台北看守所(拘置所)に陳の身柄を移送した。

陳は逮捕に抗議してハンガー・ストライキを決行し、16日、健康状態の悪化により病院に搬送された(その後も二度ハンストを決行している)。
起訴

台湾最高検は2008年12月12日、陳を(1)総統府機密費の不正流用(2)海外口座を利用した資金洗浄(3)台北市郊外の土地開発をめぐる収賄(4)台北市内の公共工事の入札をめぐる収賄?の4つの事件について、マネーロンダリング(資金洗浄)防止法違反などの罪で起訴した[8]

13日、台北地方法院はいったん保釈を認める決定を下した。しかし、検察当局の不服申立てを受けて台北高等法院が審理のやり直しを命じ、30日、台北地方法院は保釈を取消したため、結局、陳の身柄は一度も解放されることなく、再び台北看守所に移送された[9]

第一審公判中の2009年5月5日、台湾最高検は、別の収賄事件で陳を追起訴した。
公判
第一審

第一審の初公判は2009年1月19日台北地方法院で開かれ、陳は「このような辱めは受け入れられないし、死んでも死にきれない」と無罪を主張、約1時間にわたって立ったまま自ら弁論を行った[10]。陳の勾留延長をめぐる裁判も行われたが、3月3日5月11日7月13日の3度にわたり、いずれも勾留延長の決定がなされた。

同年9月11日、台北地方法院は、陳に対し、総統府機密費の横領収賄・マネーロンダリング(資金洗浄)などの罪で有罪認定し、無期懲役、罰金2億台湾元(約5億6000万円)、終身公民権?奪の判決を言い渡した。

また、事件を主導したとされる呉淑珍夫人にも無期懲役、罰金3億台湾元、終身公民権?奪の判決を下した。長男・陳致中も懲役2年6月、側近の馬永成・前総統府副秘書長も懲役20年など、共犯として起訴された12人全員が有罪判決となった。
控訴審

陳は一審判決を不服として控訴し、改めて全面無罪を主張した。

控訴後まもない2009年9月22日、台湾最高検は、別件の外交機密費の横領の罪で陳を追起訴し、邱義仁元総統府秘書長も起訴した。

2010年6月10日、台北高等法院は、陳に対し、一審判決の量刑を懲役20年、公民権剥奪10年に減刑する判決を下した。


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