陳水扁
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また帰国後は台湾の全309郷鎮を訪問し、今後の政策運営のための地盤づくりを行った。そして同年7月、民進党候補として総統選挙への立候補を正式に表明した。

陳水扁はイギリス労働党の改革をモデルとし、中間左派の「新中間路線」を政策主軸とした。この時、陳水扁は総統選当選の可能性を認識しておらず、将来の政治活動のための準備期間として認識していた。そのためメディアを通じ自叙伝『台湾之子』を出版して、自己の経歴と主張、理念、台湾の未来について述べていた。

しかし総統選挙では、国民党の総統候補争いで連戦に敗れた宋楚瑜が国民党を離党し無所属候補として総統選挙に出馬したため、国民党支持票が割れた。その結果、陳は39.3%の得票率で当選し、5月20日に中華民国第10代総統に就任した。これは国民党出身の李登輝から民進党への政権交代であり、半世紀に及ぶ国民党支配体制を民主的選挙によって終焉させた。
台湾総統として
1期目(2000年 - 2004年)

陳が総統に就任する以前、台湾では政権交代の必要性が叫ばれていたが、実際に交代すると半世紀に及ぶ国民党支配の影響力が大きく、政権運営に支障を来した。政権発足当初は国民党籍の唐飛 行政院長に指名し、超党派による「全民政府」を掲げたが、「核四問題(台湾第四原子力発電所建設問題)」で建設に反対した陳と対立し唐が辞任。「全民政府」は崩壊し、陳は代わりに民進党の張俊雄を行政院長に指名するが、今度は立法院の多数を占める国民党および親民党(総統選挙後に宋楚瑜が結成)からの罷免決議案に対し譲歩して建設続行を表明するなど、独自色を薄める結果となった。

また、陳政権後各方面から政策実行能力などで批判が発生する。特に民進党結党時のメンバーからの批判が注目された。民進党主席の地位を争い、敗北した結果離党した主席経験者の許信良、党宣伝部主任でスポークスマンだった陳文茜などが反陳水扁勢力の代表であり、2000年の総統選挙後に反陳水扁の言論を行うようになった。陳水扁は野党勢力を結集させた民進党政権を確立したが、政権獲得後は党内の反対派の意見を抑圧しているとの批判を受けるようになった。

2002年9月、軍公教待遇改革問題で10万人の教師がデモを行い、数か月後に農民、漁民などが政府が発表した農漁会改革に反対し大規模なデモにつながり、行政院農業委員会主任委員の范振宗および財政部長である李庸三の引責辞任に発展した。陳水扁は中央機構のメンバーを大幅に入れ替えた。国民党体制の改革を目標としたこの措置も、反対派からは政治経験が豊かな国民党系メンバーに代えて、経験に乏しい民進党系メンバーを登用したことが政治の真空状態を発生させたと批判の対象となっている。
2期目(2004年 - 2008年)
総統選挙再選2004年の総統選挙

2004年の総統選挙では、国民党と親民党が選挙協力を行い泛藍連盟を形成したことで当初優勢と考えられていたが、台湾独立意識の高まり(李登輝主催の台湾独立デモに想定を超える100万人超の参加者が集まるなど)により民進党や台湾団結連盟などの泛緑連盟の支持率も少しずつ上がっていき、泛藍と支持率を並べるようになった。

そのような情勢の中で、投票前日の3月19日、陳水扁と副総統候補の呂秀蓮が台南で民衆の応援に応えながらパレードしている最中に銃撃を受けて負傷するという暗殺未遂事件(三一九槍撃事件)が発生した。この事件は選挙結果にも影響を与えたとされ、得票率50.11%対49.89%、わずか2万9518票差(無効票約33万票)で陳水扁が当選した[2]。非常に僅差での勝利であったため泛藍連盟は強い反発を示し、総統候補の連戦が「銃撃事件は自作自演であり、選挙は無効」と訴え、支持者は連日抗議デモを行った[3]。これに対し司法は数か月にわたる審理を行い、2004年11月4日午後4時2分に連戦の訴えを退け、陳の当選有効が確定した。

銃撃事件に関してはさまざまな調査が行われた。鑑定専門家の李昌トによる調査では、陳の銃創が拳銃によるものであるとの鑑定結果が提出され、残された弾丸より犯人捜査が行われた。その後被疑者として地元出身の無職の男、陳義雄が特定されたが、約10日後、水死体で発見され、自殺かどうかもわからず、動機などの真相は明らかにされなかった[3]

尚、事件から数年後、中国反体制活動家・袁紅氷が「中国人民解放軍の情報機関が台湾の選挙を混乱させようとして実行したテロだ」と証言したが、それを裏付ける資料はでていない[4]

2006年10月9日、陳水扁は中華民国国慶日式典に出席するため訪台した日華議員懇談会のメンバーと会見し、その席で北朝鮮が同日に地下核実験を実施したことを強く非難するとともに、日本アメリカとの軍事交流を強化して、両国と準軍事同盟を構築する必要性を強調した[5]
スキャンダル陳水扁退陣を求める「紅衫軍」

2005年8月、高雄捷運における陳哲男のスキャンダルが表面化する。前総統府秘書長陳哲男が業者の招待を受けて海外旅行したというものであり、清廉さを謳った陳政権にとって初めての打撃となった。立法委員の邱毅によるスキャンダル追及が続き、台湾メディアで長期にわたり注目された。

続いて2006年5月25日、陳水扁の娘婿である趙建銘のスキャンダルが表面化する。台湾土地開発公司の不正取引に関する内容であり、台北地方法院は証拠隠滅のおそれがあるとし身柄拘束の上、接見禁止を決定した。また妻・呉淑珍に対しても百貨店太平洋崇光の商品券の受け取りおよびインサイダー取引も浮上し陳水扁の政局運営に重大な被害を与えた。これを受けて5月31日に陳水扁は職権を除き与党の運営や選挙活動から手を引くと宣言した。

さらに同年11月3日、呉淑珍が検察当局から総統府機密費1480万台湾元を私的流用していたとして、汚職と文書偽造の罪で起訴された。起訴によって陳の退陣を求める声が野党や中間層だけでなく与党民進党内部からも噴出した。民進党の友好政党だった台湾団結連盟も総統罷免案が提出された場合賛成する意向を表明し、陳は窮地に追い込まれた。こうした中で陳は11月5日に記者会見を開き、機密費の私的流用疑惑を否定した上で、裁判の一審で呉に有罪判決が出た場合総統を辞任する意向を表明したが、与野党・世論の不信を払拭するまでには至らなかった。
台湾正名政策2006年、台湾スポーツ・エリート・アワードで開会スピーチを行う陳水扁

陳政権の二期目では、台湾正名政策を加速度的に進め、公的機関などで使用されている「中国中華 (China) 」という呼称を「台湾 (Taiwan) 」へ置き換えるようになった。2007年2月12日、台湾の郵便事業を行う「中華郵政」の名称を「台湾郵政」に変更した(しかし馬英九政権になった2008年8月に「中華郵政」に戻すことが決定された)。同時に「中国造船」は「台湾国際造船」、「中国石油」は「台湾中油」と改称された。

また「脱?介石化」も推進された。2006年9月6日に、?介石の名前である「中正」(介石は)を冠した「中正国際空港」の名称を「台湾桃園国際空港」に変更した。さらに、2007年5月19日に「中正紀念堂」を「台湾民主紀念館」に改めたが、こちらは立法院に否決され、6月7日に元の名称に戻った。
支持率低迷と2008年立法院選挙

前述のスキャンダルの影響もあり、陳の支持率は低迷した。2008年1月12日立法院選挙では民進党主席として挑んだが、定数113議席のうち27議席しか得られず、81議席を得た国民党の大幅なリードを受けて「党創設以来、最大の惨敗」と述べ、党主席を引責辞任する。
両岸関係と外交政策

陳は本来、台湾独立の傾向が強い人物であるが、強本西進を掲げ、一期目の就任演説では「四つのノー、一つのない」の原則を打ち出し、任期中の台湾独立に繋がる国号変更などは行わないことを明言していた。しかし、前年に反分裂国家法が制定されたことから2006年春節の演説では国家統一綱領国家統一委員会の廃止の可能性および国際連合に「台湾」名義での加盟申請に言及した。これは前述の原則の「一つのない」に違反するものであるとして、野党泛藍連盟から強烈な批判を受けた。また、アメリカ国務省1月30日のレポートも、陳水扁の春節発言に対し「一つの中国政策は変更されない」と現状維持の要望を表明した。2006年2月27日、陳は国家統一委員会と国家統一綱領の運用停止を発表し、中国からの強い反発を受けた。

2007年5月10日、陳水扁は記者団に対し、中国共産党中央委員会総書記胡錦濤に台湾訪問の正式要請を行ったことを明らかにした。


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