しかし、10月10日午後に行われた「広州反帝国主義大連盟」のデモ隊が太平南路の西濠口に差し掛かった際に、商団軍による発砲が行われ、死者15名、溺死者13名を出したうえ、50人を逮捕した[13]。この後、市内の食料品店のストライキや、武装パトロールの強化、「打倒孫政府」のビラの掲示を実施した[14]。この事件を知った政府側は、韶関から廖仲トらの軍を広州に派遣し、15日に総攻撃を実施した[15]。この際に、商団軍の総本部が政府によって制圧されたことを知った陳は、香港へと逃亡した[16]。 香港逃亡後、陳は南洋兄弟煙草公司監理[16]や東華三院
香港時代
陳済棠が広東省を統治していた頃に、陳は香港にいる他の紳士らと共に広州に戻る観光団を組織し、広東省政府は牌楼を設置し、廉伯らを歓迎した。陳済棠と陳銘枢は宴会を主催し、香港の商人が祖国の産業に投資することで、経済振興になることを期待していた。陳は香港に戻った後、指名手配されたことで数年間広東省を離れていた時の鬱憤を帰郷時に「余すことなく吐いた」と語っている[1]。
その後、陳は日本勢力に接近した。太平洋戦争開戦前には、当時の香港総督に向け、イギリスが香港から手を引き、香港の統治権を日本に移譲するよう要求する書簡を送り、逮捕された[1][16]。1941年に発生した香港の戦いにより、香港が日本軍に占領された際には日本軍に協力し[1]、1942年3月に設立された華民代表会では4人いる委員の1人となった[18]。
太平洋戦争末期の1944年12月24日に、陳は2人の妻と3人の子どもを連れ、「嶺南丸」に乗船し、マカオへと向かった。しかし、龍鼓水道の大小磨刀付近を航行中、アメリカ軍の戦闘機により、上空から攻撃され、嶺南丸が沈没した(嶺南丸事件)。この際、陳は海に投げ出され、溺死したと言われている[1]。60歳没。
死後詳細は「陳廉伯公館(中国語版)」を参照
陳の死後、陳が広州時代に居住していた邸宅は、1946年に両広監務公署の事務所として利用され、憲兵が警備するようになった。中華人民共和国建国後は、政府機関の宿舎として利用されるようになった。その後、1993年8月には広州市文物保護単位に指定された[4]。 1917年から1920年頃に、病院や慈善団体、扶助団体などに寄付を行い、広東粮食済会の責任者や方便医院(現・広州市第一人民医院
社会貢献
1921年には、李U堂と馬應彪(中国語版)と広東省政府らと共同出資を行い、私立嶺南大学(現・中山大学)内に嶺南農業大学(現・華南農業大学)を設立した。この農業大学は1927年に嶺南大学に統合され、農学院に改組された[19]。
家族
祖父:陳哲?(中国語版)
兄弟:
陳廉仲(中国語版) - 広州商団事件後も広州に残り、廉伯の跡を継いで買弁となった。
陳汝恭 - 地元で教師となった[2]。
陳蒲生 - 廉伯に任命され、広西省で金鉱山を経営した後、香港でモービルやシェル・オイルなどの事業を経営した[2]。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 中国語: 橡皮股票?潮。当時はゴム産業が急速に発展しており、上海のイギリス租界にあった上海証券取引所にて「蘭格志拓植公司(ランカット)」を中心にゴム産業に関連した株が人気株となっていた。中国人投資家の投資を皮切りに、銭荘や政府系機関までもが投資を始めたため、株価が急上昇したものの、ゴムの最大消費国であるアメリカ合衆国が6月から輸入量を大幅削減することを発表し、ゴム関連企業の株価が暴落した[3]。
出典^ a b c d e f g h i j k l m n 黄, 皓 (2008年5月7日). “ ⇒[富豪篇・?廉伯]?致?文?心北上的“广?第三罪人”” (中国語). 广州数字???. 広州図書館(中国語版). 2021年2月21日閲覧。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 中国人民政治協商会議広州市委員会, p. 1
^ “中国:“歴史は繰り返す”、100年前の上海株狂乱に学ぶ”. ロイター通信. FISCO. (2015年8月13日). https://jp.reuters.com/article/idJP00093300_20150813_00720150813 2021年2月24日閲覧。
^ a b 中国人民政治協商会議広州市委員会, p. 2
^ a b c 梁, 嬋 (2009年12月14日). “ ⇒西?公?” (中国語). 广州数字???. 広州図書館. 2021年3月6日閲覧。
^ 胡, 其瑞 (1994). ⇒“第四章 國民政府成立前後的政商關係” (中国語). 近代廣州商人與政治(1905-1926): 162. ⇒http://thesis.lib.nccu.edu.tw/cgi-bin/gs32/gsweb.cgi?o=dallcdr&s=id=%22G0881530161%22.&searchmode=basic#XXXX.
^ 三石 1985, pp. 56?57
^ a b 三石 1985, p. 70
^ a b 三石 1985, p. 71
^ a b 三石 1985, p. 74
^ 三石 1985, pp. 79?80, 83