陰陽道
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病気疫病地震火災天災といった災い事は祟りなどが起こすものと考えられ、祟りを起こす神の存在をに例えたり、疫神として恐れていた[4][5][6]

神祇祭祀を司るのは神祇官であって、陰陽寮の管轄下にはなかった[7]。疫神祭、鎮花祭、風神祭、大祓、宮城四隅疫神祭、防解火災祭、螢惑星祭など様々な、祭祀が行われていたとされ[8][9]、陰陽道が平安貴族社会を基盤にして呪術的に展開されており、律令制の神祇祭祀の中に、陰陽要素を含んでいた[8][10]

京内を結界(聖なる領域と俗なる領域)し、京城四隅疫神祭(都)、宮城四隅疫神祭(内裏)など、四角四境の祭祀を行い、世の安泰を願っていた[4][9]

9世紀の陰陽師として特筆すべき人物として、滋岳川人がいる。川人は陰陽博士を兼ねたまま、陰陽権允や陰陽権助を兼務して陰陽寮の実務官僚として活躍し、それまで貴族官僚が占める地位であった陰陽頭に就任した。また、『世要動静経』『指掌宿曜経』『滋川新術遁甲書』『金匱新注』などの著作があり、それらの実物は現存しないものの、後代の陰陽師が川人の著作の説を多く引用していることが知られている。川人は今日知られている陰陽道の成立期にその流れを切り拓いたとする評価がある[11]安倍晴明921年 - 1005年)。
安倍晴明の時代

10世紀には陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行賀茂保憲父子が現れ、その弟子から陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明が出た。忠行・保憲は晴明に天文道、保憲の子光栄に暦道を伝え、平安末期から中世の陰陽道は天文道・暦道を完全に取り込むとともに、天文道安倍氏暦道賀茂氏が二大宗家として独占的に支配するようになった[注 1][注 2]
安倍氏・賀茂氏の分立

安倍氏・賀茂氏による陰陽道の支配が確立したとはいえ、その内実は複雑であった。朝廷・院の公事のみならず、摂関家から地下官人の私事まで宮廷社会における陰陽道に対する需要は院政期以後も高く、陰陽寮(官人陰陽師)の充実に伴って安倍氏・賀茂氏は複数の流に分立した。彼らは朝廷に対して陰陽道・天文道・暦道に関する業務を一族として請け負っていた(官司請負制)が、一方で安倍氏・賀茂氏の内部においてもそれぞれの嫡流や陰陽寮の地位を巡る争いを激化させる。こうした中で平安時代末期から鎌倉時代初期になると、賀茂在憲・在宣父子や賀茂家栄、安倍泰親安倍晴道・安倍広基などが活躍した。彼らは摂関家[注 3]や鎌倉幕府と結びつき、中には安倍国道のように鎌倉に下って幕府に直接奉仕する人々(関東陰陽道/鎌倉陰陽師)もいた[注 4][16]

室町時代に入ると本来下級貴族の家柄であった安倍氏の嫡流は他の一族を圧倒して公卿に列することのできる家柄へと昇格していった。中世には安倍氏が陰陽寮の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助としてその下風に立った。戦国時代には、賀茂氏の本家であった勘解由小路家が断絶、暦道の支配権も安倍氏に移るが、安倍氏嫡流土御門家も戦乱の続くなか衰退していった。一方、民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。

安土桃山時代には豊臣秀吉祈祷占い生業とする陰陽師を地方に追いやり、当時陰陽寮にいた正式な陰陽師の数をはるかに超える陰陽師と名乗る人間が全国に流れた[17][18][19]戦国時代迫害で、筆頭の土御門家であっても陰陽道の相伝や法具などの多くを焼失した。陰陽道の最も重要な「大法」の泰山府君祭(たいざんふくんさい)の祭壇も喪失し、京都吉田神社から法具を借用して御所の地鎮祭を行った。その影響が大きくあり、[20][21][22][23]宮中祭祀は神道色を色濃くしていった[20][21][22][23]


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