除名
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除名の原因は懲罰を原因とするものと召集不応または欠席を原因とするものの2種とされていた[2]
懲罰による除名
衆議院においては事犯のあった日から議員20人以上の賛成をもって動議をなし(議院法第98条)、その表決数は出席議員の3分の2以上とされていた(議院法第96条第2項)。ただし、除名された議員が選挙で再選された場合に衆議院はこれを拒むことができないとされていた(議院法第97条)。
召集不応または欠席による除名
議員が正当な理由なく指定期日後1週間以内に召集に応じない場合、正当な理由なく本会議や委員会を欠席した場合、請暇の期限を過ぎたにもかかわらず議長より発せられた招状を受けてから1週間以内に出席しない場合には、貴族院においては出席停止とした上で上奏して勅裁を請うものとし、衆議院においては除名することとされていた(議院法第99条)。

なお、貴族院議員については禁錮刑以上の刑に処せられた場合または破産宣告を受けてそれが確定した場合にも勅命をもって除名すべきとされ(貴族院令第10条第1項)、除名された議員についてはさらに勅許がなければ再び議員となることができないとされていた(貴族院令第10条第3項)。

帝国議会において除名された議員本会議採決日議院議員賛反比率理由
1893年12月13日衆議院星亨1859266.78%収賄疑惑によって議長不信任が議決されたにもかかわらず、議長の座に固執したため
1938年3月23日衆議院西尾末広3204388.15%国家総動員法案の審議において近衛首相を「スターリンの如く」と賞賛した発言を逆に政友民政両党が問題視したため
1940年3月7日衆議院斎藤隆夫296797.69%反軍演説が軍部の反発を招いたため

地方議会における除名

現行制度上、地方議員の除名については地方自治法第135条に規定されており、地方自治法並びに会議規則及び委員会に関する条例に違反した議員に対して行うことが可能である。除名は懲罰の一種であり(地方自治法第135条第1項)、その動議を議題とするには議員の定数の8分の1以上の者の発議によらなければならない(地方自治法第135条第2項)。また、除名については、定足数は議員の3分の2以上、表決数は議員の4分の3以上とされている。
除名決議に関連する訴訟事件

米内山事件


八尾市議除名事件

政党の除名

政党においても、党則で反党行為や反社会的行為や公序良俗に反する行為に対する党員への除名(党によっては「除籍」)を定めている。特に、国会議員経験者や中央幹部経験者の行動における政党本部による処分の場合は注目される。

除名処分を受けた者が大量に出た例として、2005年の自由民主党(郵政民営化反対者に対する処分)、2012年の民主党(消費増税法案反対など党への造反者に対する処分)があり、特に民主党の例では同一年に70人以上が除籍(除名と同義)処分を受け、事実上党が分裂状態となる前代未聞の事態となった。

公職選挙法第86条第9項・第10項で、国政選挙の比例区の候補者が除名により政党に所属する者でなくなった場合、政党が「当該候補者が政党に所属する者でなくなった旨の届出」と「当該除名の手続を記載した文書」と「当該除名が適正に行われたことを党首が誓う旨の宣誓書」を提出することが規定されている。この手続きにより、仮に欠員が生じて繰り上げ当選の対象となっていたとしても、政党の比例代表名簿から抹消されているため、当選の権利を有しないこととなる。当該事例として、第16回参議院議員通常選挙日本新党比例代表区名簿に登載されていた松崎哲久(詳細は日本新党繰上補充事件を参照のこと)、第45回衆議院議員総選挙民主党比例東北ブロック名簿に登載されていた川口民一(比例単独)の事例があげられる。

一方で除名処分を受けた者が復党するケースも散見される。自由民主党では2016年に綿貫民輔が復党した際に、除名処分を受けた者の復党に際しての基準を新たに内規に定めた。内規では原則として「除名処分を受けて10年を経過し、(1)党や国への顕著な貢献がある(2)除名者が関係する党都道府県連や党所属国会議員の相当数が復党に賛同(3)刑事罰を受けていない、の3要件を満たす」ことを復党基準としている[3]
国会議員経験者の除名処分
吉田自由党


石橋湛山河野一郎(1952年):同年中に除名取り消し。

石橋湛山、岸信介(1954年):日本民主党に参加。石橋は二度目の除名。

いずれも後の保守合同によって自由民主党に参加している。
自由民主党
詳細は「自由民主党を除名された国会議員一覧」を参照
日本社会党社会民主党


衛藤速濱田寅蔵(1948年)

黒田寿男岡田春夫中原健次太田典礼玉井祐吉松谷天光光(1948年):労働者農民党を結成

足立梅市(1949年)

和田敏明(1950年)

白井勇(1954年):左派社会党所属・その後自由民主党へ移籍

木下源吾(1956年):参院選立候補に伴うもの

安部清美(1957年)

武藤運十郎(1959年)

相沢重明(1967年)

岡田宗司戸叶武藤原豊次郎(1968年)

大橋和孝(1974年):京都府知事選挙に立候補。

後藤俊男(1974年)

金瀬俊雄(1976年)

江田三郎大柴滋夫(1977年):社会市民連合を結党。

田英夫秦豊(1979年 田は1989年取消、1997年復党):社会民主連合を結成。
詳細は「社会民主連合#党史」を参照

亀田得治(1980年):大阪府知事選挙に立候補。その後除名処分を取り消して離党を受理。

辻一彦(1983年、1986年処分取消され復党):総選挙出馬。

安恒良一(1992年):東京佐川急便事件にからむ不適切な交際疑惑。詳細は「東京佐川急便事件#概要」を参照

渋谷修(1993年):衆議院定数是正法案に党方針に反して賛成。「板橋民主党」を結成、その後、新党さきがけを経て民主党へ移籍。

小林正(1993年):民主改革連合、新進党を経て自由党へ移籍。

川島實(1994年):首相指名選挙で党首の村山富市以外に投票。新進党を経て自由連合へ移籍。

伊東秀子金田誠一中尾則幸(1995年):伊東は自民党などの推薦を得て北海道知事選に立候補。金田、中尾は伊東を支援したため。金田は新党さきがけを経て、民主党へ移籍。中尾は新党護憲リベラル平和・市民、新党さきがけを経て民主党へ移籍。

川俣健二郎(1995年):秋田県知事選挙で、新進党推薦の佐藤敬夫を支援。

堀込征雄(1995年):前年の首相指名選挙で海部俊樹に投票。新進党などを経て、それぞれ民主党へ移籍。

矢田部理山口哲夫栗原君子小森龍邦岡崎宏美(1996年):党の日米安全保障条約自衛隊容認方針をめぐり反発し新社会党を結成。矢田部・小森・栗原・岡崎は歴代委員長に就任。

山花貞夫嶋崎譲(1996年)[注 1]海江田万里らとともに市民リーグを結成。のち民主党へ移籍。

上原康助(1998年):党の沖縄基地問題の方針をめぐり、民主党へ移籍。


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