陣内智則
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実際、「リミテッド(limited)」は「制限された」「わずかな」という意味の言葉だが、本人は指摘されるまでこの勘違いに気付かなかった。リミテッドとしての初仕事は、その当時、WコウジMBSラジオで放送していたラジオ番組の素人参加型コーナーだった。その他、高校時代にも『ピート・ローズ』のコンビ名で出演し賞金を稼いでいた。その後、『NSCアマチュア大賞』の秋開催のグランプリを獲得。これが、リミテッド時代に獲得した唯一の賞となる[注 1]

陣内は同級生と一緒にNSC入学と同時に、祖父の知り合いが営んでいた寿司屋・小鯛雀鮨鮨萬[注 2]で生活費などを稼ぐためにアルバイトで入るつもりが、誤って正社員になる手続きを済ませてしまった。職人達の中での厳しい仕事だったため同級生はすぐに辞めたが、陣内は卒業までの1年間、早朝4時に起床してからの皿洗いやシャリ炊き、料理の下拵えなどをしていた。

NSC卒業後、心斎橋筋2丁目劇場を中心に活動を開始。しかし当時のリミテッドは評判が芳しくなく、「2丁目ブーム」の中リミテッドは「2丁目で一番おもんないコンビ」などと揶揄されていた。その結果、結成3年後の1995年9月をもってコンビは解散。相方の西口は解散と同時に芸能界から引退したことに伴い、陣内自身はピン芸人への転向を余儀なくされた。

先述の通りリミテッドの評判が悪く「見たら不幸になるコンビ」という批評もあり[11]、舞台に立つと観客が顔を伏せる状況であった。実際、当時はネタ番組で1分だけの出演にも関わらず出番になった途端画面に台風情報が入ったり、一般参加型のフェリーツアーの追加メンバーにリミテッドの名前が出た途端台風でツアーが中止になったりするなど、不運ぶりも群を抜いていた。このことで陣内自身も萎縮してしまっており、ライブの前説をする後輩に「今日来た方は残念でしたね。なんと、今からリミテッドが出ます!!」といじられてもまったく反応を返せなかった[12]。その後、後輩芸人の予定が合わなかったため、その代役としてテレビ番組に出演することになったが、出番は着ぐるみを着て舞台を通過するだけという屈辱的なものだった。陣内はそのことが悔しくて仕方なかったが、相方の西口が意欲のない態度を示したため、その場で殴り合いの喧嘩となり、その最中に陣内は解散を決意した[13]

リミテッド解散以降、「Wachacha Live」への出演もままならなくなった陣内はテレビの『すんげー!Best10』や同番組で結成されたユニット「そういう人達」のライブ活動で凌ぎ、1996年12月の若手ネタ番組『オールザッツ漫才』(毎日放送関西ローカル)に出演。若手芸人のトーナメント戦で欠員が出たため(岸本R突然の不参加による)、陣内が急遽スタッフに呼ばれ1人でネタを披露するという場面があった。センターマイク前に1人で立ち一発ネタを1人でただしゃべるだけだったが、これが大受けし3回戦まで進出した。

解散のショックからなかなか立ち直れないでいた1997年、先輩芸人や吉本側から「ネタが作れない芸人は出るな」「次のイベントでスベったら芸人を辞めろ」と最後通告を受ける。プレッシャーからネタ作りもままならなかったが、イベントの直前に偶然乗った電車の車掌のアナウンスが変であったことに思わずツッコミを入れたところ周囲から笑いが起きたことに気づき、現在の持ちネタである「予め用意された音声や映像にツッコミを入れるネタ」の原型となる、新しい手法のネタが閃いた。開演数分前にようやく新ネタが完成し、それを演じたところ評判が良かったため吉本の陣内に対する評価も変わり、仕事が増えるようになる[11]

1999年10月放送開始の情報番組ちちんぷいぷい』(毎日放送)の月曜レギュラーに抜擢され、同曜日の人気企画「クイズ私鉄沿線」で関西の中年層への知名度も徐々にアップする。同年11月からは爆笑オンエアバトルNHK総合)に出場。初挑戦で当時の最高KBである537KBを記録。以降も高得点を連発し、番組の常勝組となっていく。

1999年にbaseよしもとが開館し、FUJIWARAシャンプーハットらとともに後輩たちをまとめる役を買って出ることになった。また、この頃から番組やイベントなどでの司会を任されることが多くなるが、その中でも圧倒的に毎日放送での仕事が多い時期に、毎日放送の番組で有名になったこともあって陣内は「MBSの若獅子」「MBSと言えば陣内智則」と言われるようになる。ケンドーコバヤシからは「(当時同局アナウンサーだった角淳一に媚びているのではないかという冷やかしで)角智則に改名しろ」と言わしめたほどだった。

baseよしもとを卒業後は、うめだ花月ルミネtheよしもとなどで活動。2003年に『エンタの神様』(日本テレビ系列)に出演して以来東京での仕事も増えていく。平日は大阪で仕事をし、木曜日に『なるトモ!』(読売テレビ)の生放送と同番組の金曜分の収録が終わるやいなや、午後から新幹線航空機で移動し、東京で『エンタの神様』などの番組収録とルミネtheよしもとの公演をこなしていた。

2003年頃からは、俳優声優など他の仕事も手掛けるようになる。ドラマでは『かるたクイーン』(NHK制作、2003年1月放送。石田ひかり山口達也錦戸亮ほか出演)に主人公に恋する新聞記者役として毎回出演した。

2004年、予てから好きだと公言していたゲームソフト桃太郎電鉄シリーズハドソン)の第13作「桃太郎電鉄USA」のCMに出演(若槻千夏Psycho le Cemuと共演)し、これが自身初のCMとなる。

2004年から朝日放送の日曜正午枠「日曜笑劇場」に主演・座長としてレギュラー出演するようになる。同年6月に、単独ライブ『NETAJIN』公演を開催、この模様はDVD『NETAJIN』に収録された。

2005年4月4日、5年2か月間レギュラー出演していた『ちちんぷいぷい』を降板。当時関西ローカルで放送されていた『なるトモ!』が同年10月3日から日本テレビ、中京テレビ広島テレビ熊本県民テレビでもネットされるようになった[注 3]

2006年1月19日放送の『なるトモ!』で番組開始から約1時間遅刻。『陣内智則のひとり番長』(TBSラジオ制作)生放送終了後、東京から大阪市へ向かう新幹線車内で熟睡し下車する新大阪駅を乗り過ごしたことが直接の原因[注 4]


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