日本における阿?如来の彫像は、五仏(五智如来)の一尊として造像されたものが大部分であり、阿?如来単独の造像や信仰は稀である。重要文化財指定品で阿?如来と称されているものには、奈良・法隆寺大宝蔵殿南倉安置の木造坐像、和歌山・高野山親王院の銅造立像がある。
空海が開創した高野山金剛峯寺金堂(旧堂は1926年に焼失)の本尊は阿?如来と伝承されていたが、薬師如来とする説もあり、さらには阿?と薬師は同体であるとする説もあった[11]。同像は古来から完全な秘仏であったことに加え、1926年の火災で焼失してしまったため、その像容は不明である[11]。
後期密教(ふんぬぎょう)の護法尊が多数信仰されるようになった。また後期密教では最高位の仏(本初仏、勝初仏)が、大日如来から、法身普賢、金剛薩?、持金剛仏等へと変化していった。また阿?如来は阿?金剛として、無上瑜伽タントラ各経典の主尊と同一視されつつ、曼荼羅の中尊を担うようになった。特に『秘密集会タントラ』と結びつけられることが多く、青色の歓喜仏(ヤブユム)の姿で、タンカなどの美術品に描かれることが多い。イスラム教の台頭と仏教の衰退を背景として成立した、インド仏教・後期密教の終末期の経典である『カーラ・チャクラ(時輪)タントラ』でも、護法尊を統括する本初仏として阿?金剛仏たる阿?如来が主尊である。時輪タントラでは、シャンバラは阿?如来の変化身である忿怒尊ヘーヴァジュラ
インド後期密教の流れを受け継ぐチベット仏教やネパールの仏教では、阿?如来は単独で広く信仰され、造像例も多い[13]。
エピソード歌川国芳『木曽街道六十九次』「赤坂 光明皇后」。中山道赤坂(あかさか)宿と垢(あか)を落とす光明皇后とをかけた洒落絵で、身体から後光が発する病人が阿?如来であることを示している。
石上宅嗣が設立した日本最初の図書館芸亭はこの如来を祀る阿?寺の一角にあった。
光明皇后が自ら建立した法華滅罪之寺の浴室で1000人の民の汚れを自ら拭うという願を立てたが、1000人目は皮膚から膿を出す病人であり、皇后に膿を口で吸い出すよう要望した。皇后が口で吸いだすと病人は阿?如来と化したという伝説がある。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 阿?如来の「?」(しゅく)に「閃」(せん)を充てる場合がある[1][2]が、意味合いも読みも相違がある。
出典^ “ ⇒阿閃如来”. 龍光山正宝院. 2021年8月30日閲覧。
^ “十一 知名度は低いけどダイナマイトパワー 阿閃如来【あしゅくにょらい】”. 高野山真言宗 末代山 妙楽寺. 2021年8月30日閲覧。
^ a b c d “阿?仏(あしゅくぶつ)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年10月6日閲覧。
^ a b c d e 『総合仏教大辞典』 1988, p. 13.
^ 金子大輔『阿?仏の研究』, p. 82.
^ a b c “ブッダの教えを読みとく(2)阿?仏と触地印”. 宗教情報センター. 2021年8月30日閲覧。
^ a b 藤巻一保・羽田守快・大宮司朗 『印と真言の本』 学研、2004年2月、p.97。
^ 金子大輔『阿?仏の研究』, p. 82-84.
^ 『精選版 日本国語大辞典』《「降三世明王」の解説》小学館。