※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
出身国務大臣政務次官参与官その他 阿部内閣は、平沼内閣の総辞職を受けて、予備役陸軍大将の阿部信行が組閣した内閣である。昭和陸軍の下剋上の風潮の中で、有末精三少佐が実質的に成立を主導したとされる[6]。組閣直後の1939年(昭和14年)9月、ドイツ(ナチス・ドイツ)がポーランドに侵攻したことにより、イギリスとフランスが9月3日に対ドイツ宣戦布告して、第二次世界大戦が勃発。阿部内閣は大戦不介入の方針[注釈 1][7]を採り、日中戦争の解決に努めたものの、不調により内閣総辞職。天津事件ではイギリスと、日米通商航海条約ではアメリカと、ノモンハン事件ではソ連と対立した日本、おまけに独ソ不可侵条約が成立した情勢では孤立無援に陥った状態であった。
りつけんせいゆうかい立憲政友会165
りつけんみんせいとう立憲民政党155国務大臣のべ2
こくみんとうめい国民同盟021
たいいちきいんくらふ第一議員倶楽部101
けんきゆうかい研究会300内閣書記官長
国務大臣のべ4
かようかい同和会100
むしよそく無所属001
くんふ軍部300国務大臣のべ4
かんりよう官僚100法制局長官
111313国務大臣のべ14
内閣の動き
脚注
注釈[脚注の使い方]^ 1939年9月4日に「今次欧州戦争勃発に際しては帝国は之に介入せず、専ら支那事変の解決に邁進せんとす」の声明を出した。
出典^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和14年8月30日
^ a b 『官報』号外「叙任及辞令」、昭和14年9月25日
平沼内閣阿部内閣
1939年(昭和14年)8月30日
- 1940年(昭和15年)1月16日米内内閣