阿?王
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倭国との修好についてはこのほか、『三国史記』によれば402年5月にも使者を派遣(目的については宝珠の入手と説明されるが詳細不明)[3]しており、403年2月には倭国からの使者を迎え、特に手厚くねぎらった、と記されているが、使者の往来に関する記事は日本側の資料には見られない。また、『日本書紀』に記される「百済から献上された阿直岐王仁」は阿花王(阿?王)の時代に相当するが、阿直岐と王仁に比定されうる人物は半島側の資料には見られない。なお、『古事記』では照古王(近肖古王か)の時代とする。詳しくは阿直岐王仁を参照。

405年9月に在位14年にして死去した。このとき、太子は倭国に人質として送ったままであったため、太子が腆支王として即位するまでの間に兄弟間での内乱が生じている。
脚注[ソースを編集]^ 『日本書紀』応神天皇三年(272年→392年)是歳条
^ 好太王碑文では閣彌城と記され、黄海道延白郡海月面姑美里に比定する説と、京畿道江華郡喬洞面華蓋山に比定する説とがある。
^ 遣使倭國求大珠。(『三国史記』百済本紀・阿?王11年5月条)

参考文献[ソースを編集]

金富軾撰、井上秀雄訳注『三国史記』第2巻、平凡社〈東洋文庫425〉、1983年 ISBN 4-582-80425-X

武田幸男編『朝鮮史』山川出版社<新版世界各国史2>、2000年 ISBN 4-634-41320-5

伴信友校訂、岸田吟香他『日本書紀』1883年(国立国会図書館 近代デジタルライブラリー










第17代百済

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