阿木 燿子
出生名福田 広子
生誕 (1945-05-01) 1945年5月1日(79歳)
出身地 日本・神奈川県横浜市
学歴明治大学文学部卒業[注釈 1]
ジャンル歌謡曲
J-POP
職業作詞家
活動期間1969年 -
共同作業者宇崎竜童
公式サイト ⇒阿木燿子オフィシャルWEBサイト
阿木 燿子(あき ようこ、1945年5月1日 - )は、日本の作詞家・女優・小説家・エッセイスト。本名は木村 広子(旧姓は福田)。明治大学文学部卒業[注釈 1]。夫はミュージシャン・俳優の宇崎竜童。 長野県長野市で出生[2]、神奈川県横浜市出身[3][4]。捜真女学校中学部・高等学部を卒業[5] 後の1964年、明治大学文学部史学地理学科[6] に入学し、軽音楽クラブに入部。そこで、後に夫となる同学年の宇崎竜童(法学部)と出会う[1]。宇崎は入部に訪れた阿木を一目見て、「あ、嫁が来た!」と思ったという。[7] テレビ出演では「妻・阿木燿子を語る」と題されたコーナーでの本人トークで「先輩から校門での部員勧誘を命じられ、はじめに声をかけた女の子がうちの嫁なんですよ。声かけた瞬間に、この人、昔あったことあるかな?もしかしたらこの人俺の嫁になる人じゃないかな(と思った)」その時はそれをいうのはがまんしたが幸い入部してくれたから今があると語った。[8] 作詞家としてのキャリアスタートは、1969年、グループ・サウンズのジュリーとバロンのデビュー曲「ブルー・ロンサム・ドリーム」(作曲は宇崎竜童)。1971年12月に宇崎と結婚[6]。宇崎竜童が率いるダウン・タウン・ブギウギ・バンドに書いた「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」は、1975年の大ヒット曲になった。 その後、多くは宇崎が作曲し阿木が作詞するというコンビで、多数のヒット曲を世に出す。特に山口百恵の全盛期から引退までのヒット曲の多くは、このコンビによるものである。 また、女優としてドラマや映画にも出演。出演作は多くはないが、大胆な濡れ場も演じて熟れた肉体を披露、独特のスローなテンポと相まって大人の女性を演じて見せた。また作家としても多数の著書があるなど、多才ぶりを発揮。 フラメンコにも挑戦し、「FLAMENCO曽根崎心中」(2001年度文化庁芸術祭舞踊部門・優秀賞)の公演プロデュースなどの活動がある[9]。 2006年には、映画『TANNKA 短歌』で、初脚本・初監督を務める[10]。 2016年には夫の宇崎とともに「いい夫婦の日 パートナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞[11]。 2019年には夫の宇崎とともに「第10回岩谷時子賞 特別賞」を受賞[12]
人物・来歴
エピソード
元来の美貌・スタイルのよさ・内面性から、カネボウ化粧品の専属契約を永年続けていた。
かつて美容関連の単行本のインタビューで「(美容の秘訣として)1日に2リットルの冷たい水を飲むこと(特に起床時は必ず少量でも飲む)と、数十種類の野菜を食べること」と語った。「外食時も、野菜の副菜・一品ものをメインの料理とは別に注文し、テーブルが一杯になったことも多々ある」「よくよく調べたら、ある一日あたり50?60種の野菜を採っていたということもザラだ」とも告白。
大学の同期で音楽サークルの同窓だった宇崎とは、永年のおしどり夫婦で知られる[13]。また阿木は大の酒好きなのに対して、宇崎は一滴も酒を飲まないことも知られる。
漫画家の石ノ森章太郎とは飲み友達で、その縁から『仮面ライダーBLACK』等の石ノ森が原作を手がける特撮作品の主題歌を担当する事になり、以後も特撮ヒーロー作品を手がける。
阿木は、「新タワー名称検討委員会」の委員10名[注釈 2] のうちの一人に任命された。そして、一般公募で寄せられた計1万8606件(1万7429件という説も)の名称案をふるいにかける2008年3月の委員会の場では、数件に過ぎなかった東京スカイツリーをピックアップした。『ジャックと豆の木を連想した』というように熱弁を振るって推したこともあり、阿木の意見が通り、その名称案は、「新タワーネーミング全国投票」にノミネートされる6つの最終候補に残ることとなった[14]。
賞詞
作詞関連
日本レコード大賞