チベット仏教では、無量寿仏と無量光仏は区別されている。また、ゲルク派第二位のパンチェン・ラマは無量光仏の化身とされる。チベット死者の書によれば、(大日如来、阿?如来、宝生如来に続いて)死後の4日目に魂の救済に現れるとされる。 浄土三部経以外にも阿弥陀如来は多くの大乗経典に登場する。法華経の薬王菩薩本事品にも阿弥陀如来は登場し、サンスクリット語原文においては法華経の観世音菩薩普門品にも阿弥陀如来について言及されている。仏説出生菩提心経においても阿弥陀如来の願力が言及されている。大乗離文字普光明蔵経においても、大乗離文字普光明蔵経の持経者が阿弥陀如来の来迎を得ることが説かれている。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
その他の経典における阿弥陀如来
成立年代
出典検索?: "阿弥陀如来"
阿弥陀仏信仰の成立年代とその地域については、仏像にせよ、文献にせよ、特定の手がかりとなるものが少ない。しかし、浄土系経典に用いられる仏教用語は部派仏教の用語を下敷きとしており、少なくとも部派仏教確立より以後の成立と考えられる。また浄土系経典の漢訳者の出身地は西域および北インドが多いことから、これらの地域で阿弥陀仏信仰が盛んであったことがうかがえる。
また、アレクサンドロス大王の東方遠征以降、ギリシア系のインド・グリーク朝やイラン系のクシャーナ朝などの支配のもと、北インドと西方世界の交流があったことを背景に、ゾロアスター教やミトラ教、あるいはキリスト教などが阿弥陀仏信仰の成立に影響したとの説[6]も一部で見られるが、いまだ客観的根拠に乏しい。
碑文に記された阿弥陀仏の最古の例は、北インドのマトゥラー近郊出土の足だけを残す仏の台座(マトゥラー博物館所蔵)である。記銘によると、クシャーナ朝のフヴィシカ王の28年(西暦2世紀後半)に、隊商により奉献されたものである。
阿弥陀仏に言及した経典の現存する最古の例は、後漢末期の西暦179年に西域僧の支婁迦讖によって漢訳された『仏説般舟三昧経』である。また西暦148年にはすでに安世高が『無量寿経』を漢訳したと伝えられるが、欠本となっており現存しない。
西暦2世紀末になってこれらの彫刻や文献が出現することから、阿弥陀仏の信仰と教義はクシャーナ朝前期の西暦1世紀から2世紀の間に発達したと推測される。
真言・陀羅尼
小咒は、オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン[注釈 7](o? am?ta-teje hara h??)。
大咒(無量寿如来根本陀羅尼)は、ノウボウ・アラタンノウトラヤーヤ・ノウマク・アリヤーミターバーヤ・タタギャタヤアラカテイ・サンミャクサンボダヤー・タニャタ・オン・アミリテイ・アミリトウドバンベイ・アミリタサンバンベイ・アミリタギャラベイ・アミリタシッテイ・アミリタテイセイ・アミリタビキランデイ・アミリタビキランダギャミネイ・アミリタギャギャノウキチキャレイ・アミリタドンドビソワレイ・サラバアラタサダニエイ・サラバキャラマキレイシャキシャヨウキャレイ・ソワカ。
チベット伝承の「無量光仏心咒」は、オーン・アミターバ・フリーヒ(o? amit?bha hr??)[7]。
またはオーン・アミデーヴァ・フリーヒ (o? amideva hr??)[8]、????????????????????
チベット伝承の「無量寿仏心咒」は、オーン・アマーラニ・ジーヴァーンティーイェー・スヴァーハー(o? am?ra?i j?v?nt?ye sv?h?)[7]。
曼荼羅
当麻曼荼羅
垂迹神
熊野権現
八幡神
像形絹本著色山越阿弥陀図
(京都・禅林寺(永観堂)所蔵)阿弥陀如来像(龍門石窟潜渓寺洞主尊)唐時代軍威石窟阿弥陀三尊像(韓国慶尚南道)新羅統一時代 7世紀
三昧耶形は蓮の花(金剛界曼荼羅では開花した蓮華、胎蔵曼荼羅では開きかけた蓮華)。種子(種子字)は ????? (キリーク、hr??)。
造形化された時は、装身具を着けない質素な服装の如来形で、印相は定印、説法印、来迎印などがある(詳しくは印相を参照のこと)。
阿弥陀三尊として祀られるときは、脇侍に観音菩薩・勢至菩薩を配する。
密教においては、五仏(五智如来)の一如来として尊崇される。像容は一般的には上記の顕教のものと同じだが、一部には装身具を身につけたものもある。
密教式の阿弥陀如来のうち、紅玻璃色阿弥陀如来と呼ばれるものは髷を高く結い上げて宝冠を戴き体色が赤いのが特徴である。主に真言宗で伝承される。また宝冠阿弥陀如来というものもあり、こちらは天台宗の常行三昧の本尊として祀られる。紅玻璃色阿弥陀如来と同じく宝冠などの装身具を身につけ、金剛法菩薩、金剛利菩薩、金剛因菩薩、金剛語菩薩の四菩薩を眷属とする。