防衛庁
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2023年度の一般会計予算は6兆7879億6544万6千円[5]である。2002年度(平成14年度)の4兆9345億円から2012年度(平成24年度)の4兆6453億円まで11年連続で減少を続けていたが、第2次安倍内閣の成立後は増額している。

外務省との関係では、2023年(令和5年)1月1日現在、防衛駐在官72名(陸33名、海20名、空19名)が、外務省に出向して86大使館6政府代表部(兼務を除く在勤としては49大使館2政府代表部)に派遣されている[7]
沿革
前史「防衛庁」の看板(1954年6月)

明治2年から明治5年にかけて「国の防衛と治安維持」を管轄とする兵部省(ひょうぶしょう)という省庁が存在し、これは陸軍省海軍省に分離・改組され日本の軍事を担っていた。1945年昭和20年)の十五年戦争支那事変大東亜戦争第二次世界大戦終結により陸軍省は第一復員省、海軍省は第二復員省に改組されたのち、統合され復員庁となり1947年(昭和22年)に廃止された。詳細は「復員庁#概要」および「社会・援護局#所掌業務」を参照

現在の防衛省の直接の前身は、1950年昭和25年)6月朝鮮動乱韓国名6・25戦争、北朝鮮名祖国解放戦争)勃発を受けて発足した警察予備隊本部(けいさつよびたいほんぶ)に遡ることができる。その後、保安庁(ほあんちょう)、防衛庁(ぼうえいちょう)を経て現在の防衛省に至る。「逆コース#「逆コース」といわれるもの」および「朝鮮戦争#逆コース」も参照
設置防衛省発足当時のアルミ合金製仮看板(看板の作製が間に合わないため、アルミ合金の仮看板を採用していた)仮看板を掲げていた正門

防衛省の前身である防衛庁は、半世紀あまりの間「庁」のまま国家行政組織法上の位置付けの変更は行われなかったが、その間も「省」へ移行(府省の外局である庁から内閣直属の省へ昇格)させるべきとの意見は根強く、検討議論は頻繁になされていた。しかし、具体的な提案として、防衛庁の省移行が政治日程に上ったのは、小泉政権後期の2005年後半のことで、第1次安倍政権下の2007年1月に実現した。この間の経緯は以下のとおりである。

2005年(平成17年) - 政府部内において庁から省への昇格の議論が本格化、省昇格法案を国会に提出することが予定される。

2006年(平成18年)

1月30日 - 防衛施設庁談合事件が発覚し、防衛施設庁の問題を放置したまま防衛庁を省へ移行させることへの反対意見が起こる。

6月9日 - 防衛庁を防衛省へ移行させるため、「防衛庁設置法等の一部を改正する法律案」が第164回国会に提出されるが、第164国会では継続審議になる[8]

11月30日 - 第165回国会において第164国会で継続審議とされた防衛庁設置法等の一部を改正する法律案が衆議院で可決[9]

12月15日 - 防衛庁設置法等の一部を改正する法律案が参議院で可決[10]。衆議院[11]、参議院[10]ともに自民公明民主国民新の賛成多数により、同法が成立し、2006年(平成18年)12月22日に法律第118号として公布された。


2007年(平成19年)

1月9日 - 防衛庁設置法等の一部を改正する法律(平成18年法律第118号)[12]の施行により、防衛庁設置法が防衛省設置法に改題され、防衛庁(Japan Defense Agency)は防衛省(Ministry of Defense)に改められた。

3月22日 - 初の防衛省令となる「防衛大学校、防衛医科大学校、防衛研究所、技術研究本部及び装備本部組織規則等の一部を改正する省令」[13]が公布された。

省への移行によって、内閣法にいう主任の大臣は、総理府・内閣府の長たる内閣総理大臣から防衛大臣となった。すなわち、防衛大臣は防衛省の所掌事務である国防について分担管理する大臣として責任を負う。しかし、防衛大臣が自衛隊に対して命令できる行動は「海上警備行動」までであり、それより上位の「警護出動」・「治安出動」、最上位の「防衛出動」は内閣の首長としての内閣総理大臣に命令権が与えられている。このため、省への移行に伴う防衛大臣(旧防衛庁長官)の職責上の変更点は、閣議への請議や財務大臣への予算要求、省令の制定などが防衛大臣の名において行えるようになったことに留まった。したがって、省への移行の具体的な効果は事務手続のごく若干の緩和、庁より格が高いとされる省への名称変更による隊員と職員の士気向上、他国の国防機関との均衡の改善などが挙げられている[注釈 4]
山田洋行事件と防衛省改革

2007年(平成19年)11月27日、守屋武昌東京地検事情聴取を受け、軍需専門商社である山田洋行の元専務からゴルフ旅行などの接待を受けた見返りに防衛装備品の調達で便宜を図った疑いが強まったとして、妻と共に収賄容疑で逮捕された。それだけで終わらず守屋は庁の頃からゴルフ旅行などを行っており、かつての長官(久間章生額賀福志郎)も事件の関与の疑いもあり、一部の雑誌で庁へ格下げ論を取り上げられるなどした(山田洋行事件)。

この事件や他の不祥事(防衛秘密の漏洩、報告義務違反)を踏まえ、町村信孝内閣官房長官2007年(平成19年)11月に防衛省が抱える問題について検討を行う場として「防衛省改革会議」を開催することを決定した。会議は12月から開催され、南直哉が座長に就任した後、2008年の12月まで1年にわたって12回開催された。2008年(平成20年)7月15日に会議は「報告書 - 不祥事の分析と改革の方向性」を福田康夫内閣総理大臣に答申した。報告書の改革案には防衛大臣を中心とする政策決定機構の充実として、防衛参事官制度を廃止し、防衛大臣補佐官(現防衛大臣政策参与)を設置すること、防衛会議を法律で明確に位置づけることが盛り込まれていた。

この報告書を受けて、「防衛省設置法等の一部を改正する法律案」が策定され、2009年(平成21年)2月17日に閣議決定、同日国会に提出された。法案は従来訓令に基づく存在だった「防衛会議」を法律に規定された組織として「特別の機関」に位置づけるとともに、防衛参事官の廃止、防衛大臣補佐官3人以内の新設をするものだった。法案は同年5月27日に可決成立し、6月3日に「防衛省設置法等の一部を改正する法律」(平成21年法律第44号)として公布され、2009年(平成21年)8月1日に施行された。
統合幕僚監部への統合議論

南直哉を座長とする防衛省改革会議[14]は2008年(平成20年)7月15日、防衛省再編に関する最終報告書をまとめ、福田康夫内閣総理大臣に提出した。内局の運用企画局を廃止し部隊運用を統合幕僚監部に一本化、統合幕僚副長の文官起用など、背広組と制服組の混合が柱となっている[15]。また、2008年(平成20年)12月22日には、防衛省内の省改革本部会議が「基本的な考え方」を発表した。同報告書の内容を発展的に踏襲し、他省庁との調整も含む運用部門の統幕への一本化を盛り込んだ。しかし、2009年(平成21年)8月に執行された第45回衆議院議員総選挙により生じた政権交代の結果本項を含む組織改編は見送られ、同会議は同年11月17日もって廃止された[16]

2015年(平成27年)6月10日の参議院本会議において防衛省設置法を改正する法律[17]自民公明両党及び維新の党などの賛成多数で可決され、この中で背広組を主体とする運用企画局を廃止し、部隊運用を統幕に一本化すること、防衛装備品の調達等を一元的に行う防衛装備庁の設置が盛り込まれ[18]、同年10月1日付けで施行された。
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