阪神間モダニズム
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その意味では、「ポスト・モダニズム」も一種のモダニズムだ。実際、「ポスト・モダニズム」を名のり、また、そのように見なされる今日の主張の妥当範囲は、実は第二次大戦前に起源を見いだせるものが珍しくない。1920年代の動きに、あるいは世紀転換期からの動きにも、同じ傾向を指摘することができる場合も多い。
(中略)逆に、「近代」に、ある特定の内容を与え、それを志向する意志、「近代主義」は、つぎの「近代主義」からは、停滞を志向する反「近代主義」と非難を浴びるだろう。他方、「近代」の状態を克服し、変革する志向を「近代の超克」と呼ぶとするなら、「近代主義」の内には、すなわち、「近代の超克」の意志をはらんで展開しているものもあるだろう[8]

つまり、このような意味からいえば、モダニズムとは、伝統を否定し、脱却するというよりも寧ろ、伝統との絡み合いであり、せめぎ合いであるともいえる。

所謂、「阪神間」とは、大阪神戸に挟まれた、六甲山を背景とする地域をさし、行政区域としては、武庫川以西の西宮市芦屋市、そして神戸市東部までを含めた地域と考えられる。これらの地域は、明治後期、政府が推進した近代化政策を背景に、次々に鉄道が開通し、主として大阪の企業家たちが競って住宅や別荘を建築したことから、著しい都市発展を遂げてきた。近代資本主義の発展とともに、大阪は、産業化が進展し、西日本における経済活動の中心地となっていった。また、神戸では、明治期、外国人居留地を拠点に貿易が始まり、西洋文化が早くから浸透したことによって、国際都市として独自の発展をみた。したがって、居留地を窓口に西洋文化を受容し、発展させてきた港湾都市・神戸と、上方伝統文化を継承しつつ発展してきた商都・大阪との間に位置する阪神間は、革新と伝統、西洋と日本が交錯しつつ都市発展を遂げ、新しいライフスタイルが築き上げられた地域であるということができる。とくに、1920年代から1930年代にかけては、阪神間において新たに住宅地が開発されるとともに、西洋料理を中心とした食文化の浸透、和装から洋装への変化、ゴルフテニスなど近代スポーツの広まりなどがみられ、人々のライフスタイルが大きな変化を遂げていった時期でもあった。

以上のことから、「阪神間モダニズム」とは、明治後期から大正期を経て、太平洋戦争直前の昭和15(1940)年頃までの期間において、阪神間の人々のライフスタイルを形成し、地域の発展に影響を与えてきた、ある一つの文化的傾向である、と捉えることができる[9]
経緯

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出典検索?: "阪神間モダニズム" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2021年2月)
三代目阪急梅田駅を覆っていた天蓋(百貨店新聞社・編『大・阪急』:1936年

19世紀末の大阪は、東京を上回る日本最大の商業都市であった(いわゆる大大阪時代[10]。また、神戸東洋最大の港湾都市へと拡大していた。

当時の近畿地方では、アメリカ合衆国の例にならったインターアーバン(都市間電車)路線の建設が相次ぐ。阪神電気鉄道本線1905年開業)を嚆矢とし、続く箕面有馬電気軌道(後の阪急宝塚本線1910年開業)、阪神急行電鉄神戸本線1920年開業)といった各線の開通によって、未開拓な後背地であった神戸近郊北摂近郊の農村地帯が注目される。こうして、風光明媚な六甲山南斜面の鉄道沿線である阪神間で、快適な住環境創造を目的に郊外住宅地の開発が進められた。したがってこの地区の都市的・文化的な発展と、関西私鉄資本の導入は不可分の関係にあったといえる。

まず明治期に、阪神の豪商等の豪壮な邸宅が、旧住吉村[注釈 3]に陸続と建築され、このエリアに居住する富豪数が日本最多となった[11][12]

大正期には、実業家に加え当時の新興階級であった大卒のインテリサラリーマン層、すなわち無産中流階級の住宅地として発展し、文化的・経済的な環境が整ったことから芸術家文化人などが多く移り住んだ。この流れと併行して、19世紀末から六甲山上および緑豊かな市街地となった山麓に、ブルジョワと呼ばれる富裕層を対象とする様々な文化・教育・社交場としての別荘ホテル・娯楽施設が造られ、西洋式の大リゾート地が形成された。

このようにして、西洋文化の影響を受けた生活を楽しむ生活様式が育まれていった。なおこれらの地域は、現代でも高級住宅地ブランド住宅地として全国屈指のエリアとなっている。

また首都圏においても、田園都市株式会社東急の前身)によって建設された田園調布などの東京近郊の高級住宅地などに、阪神間モダニズムの影響を見ることができる。
初期の大阪の郊外住宅地 昭和16年(1941年)の阪神間鉄道路線図

大阪周辺の郊外住宅地は、元々、別荘地の開発から始まった。

「明治の半ば頃、船場島之内の旦那衆の間に上町の桃山あたりに別荘をつくり、客を招待したり閑日にのんびりすることが流行した[13]

というように、富裕層によって比較的環境の良い手近な所で始まったそれらが鉄道の開通とともに、さらに環境の良い天下茶屋・浜寺など大阪南部、あるいは阪神間へと広がっていった。特に阪神問では、1907年大谷光瑞が現在の神戸市東灘区に「二楽荘」と名付けた別荘や、当時の大阪府立高等医学校校長の佐多愛彦が芦屋山手に結核予防に良い保養地として別荘(松風山荘住宅地の前身)の建設を行い、人々に注目されるようになった。

こうした富裕層の別荘地から多くの人々が居住する郊外住宅地になったのは鉄道敷設による都心へのアクセスの改善によるところがおおきく、中でも阪神間は山側の阪急電鉄からJR西日本、浜側の阪神電鉄と3本の鉄道路線があり、大阪郊外の他の地域に較べ、極めて交通条件の恵まれた地域であった[14]
阪神間における沿線開発
阪神電鉄の住宅地開発

阪神電鉄は、明治42年(1909年)、住宅地経営を開始し、鳴尾で貸家経営(西宮市、1910年)、御影神戸市、1911年)及び、甲子園(西宮市)で分譲住宅販売(1928?30年)というように、住宅販売事業を拡大していく。その一方で、沿線にスポーツ・アミューズメント施設を建設する構想も立て、多角的な土地利用計画を推進していった。その代表は、阪神甲子園球場である。その他にも、甲子園ホテル阪神パークなど、沿線にホテルや遊園地を建設しリゾート関連事業を手がけていった。

リゾート開発の一環として、阪神電鉄は六甲山の開発にも力を注いだ。緑が濃く、豊かな自然が残された六甲山は格好の避暑地であり、別荘地としての要件を充分に満たすものであった。リゾート地としての六甲山に最初に注目したのは、イギリス貿易商、A.H.グルーム(Arthur Hesketh Groom)をはじめとする神戸在住の外国人たちである。彼らはまず六甲山に別荘を造り、ゴルフ場を建設し、六甲山の豊かな自然のなかでゴルフや登山、クリケットなどの近代スポーツに興じた。また同時に、機関誌『INAKA』を発行し、それらのスポーツの紹介や登山記録、旅行記などを掲載した。その後も、多くの外国人が六甲山に別荘を建て、六甲山は日本におけるゴルフ発祥の地、近代スポーツと娯楽の地として広く知られるようになる。

阪神電鉄は、このようなリゾート地・六甲山に早くから注目し、電鉄の集客増員をねらって開発を計画していた。そのためにはまず、交通手段の整備が必要であると考え、大正14年(1925年)に摩耶ケーブルを、昭和2年(1927年)に表六甲ドライブウェーを、さらには、昭和7年(1932年)に六甲ケーブルを完成させ、大都市に近接した別荘地・六甲山の販売を開始した[15]


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