阪神・淡路大震災
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大阪の朝日放送(現:朝日放送テレビ)では、地震発生当時にテレビ番組『おはよう天気です』の生放送が行われていたため、地震の発生の瞬間がとらえられている[注釈 30]。テレビ朝日系列の放送局では、地震の規模を伝える貴重な情報としてこの番組内で地震が発生した様子を収めた録画テープが地震から1週間ほど頻繁に報道特別番組内で流された。

大阪市に本社を置く近畿広域圏、近畿県域圏の民放テレビ各局も被害を受けたが[注釈 31]、情報発信が出来ないほどの甚大な被害には至らず、情報を発信し続けた。

在阪のテレビ・ラジオ各局は地震発生から数時間はCMを通常通り放送していたが、毎日放送ではラジオが午前8時以降[101]、テレビが午前8時30分『モーニングEye』(TBS制作)以降、また朝日放送ではテレビが正午以降[102]、CMの全面カットを実施。在京局など近畿圏以外では通常通りCMは流れていることから、その枠を被災者に向けてライフラインなど、詳細な関連情報などを伝える枠として活用した(毎日放送、朝日放送)[注釈 32]。この態勢は発生当日から翌日、一部局では翌々日まで継続された。
テレビでは極めて異例な長時間の特別編成となったが、全国ネットである報道特番は、あくまで在京局主導で制作・放送されているため、「全国に向けた概略的な情報と、地元に向けた詳細な情報をどのように分けて伝えるか」という課題が突きつけられた。これについては後者を全面カットしたCM枠で対応し、結果的にこれが情報の整理と棲み分けを図ることに繋がったようである。

近畿広域圏では、約7日後から一部通常番組を流し始めたが、お笑いなどの娯楽番組は放送されなかった[注釈 33]。例外として発生3日後の1月20日の夜に、『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送〈現:朝日放送テレビ〉)が放送された。また『鶴瓶上岡パペポTV』(読売テレビ)では震災の翌週の放送で、通常の客席を入れたトークではなく笑福亭鶴瓶上岡龍太郎の2人による、2人が実際に見聞きした震災に関する話題や救助活動を妨げかねないマスコミの報道姿勢に対する疑問を呈したトークを行った(詳しくは、鶴瓶上岡パペポTVを参照)。

神戸に本社を置く独立局(当時は独立UHF局)サンテレビ[注釈 34] は、1月17日から1月22日まで106時間28分、独立ラジオ局であるラジオ関西[注釈 35] は当時は24時間放送は行っていなかったが、1月17日から1月20日まで69時間連続で放送を続けた。

当時独立FM局であったKiss-FM KOBE[注釈 34]は、1月17日から3月頃までCMを抜いて震災放送を行い、英語の話せるサウンドクルー (DJ) による外国人被災者向けの情報発信や、地域の被災情報発信する 臨時災害放送局としてFM796 フェニックスも設けられた。震災は外国人向けの情報の必要性が認識されたことでFM CO-CO-LOエフエムわいわいをはじめとする外国語放送設立のきっかけとなり、また市町村単位の情報が課題とされ、3年前に制度が整備されていたコミュニティ放送制度が全国的に脚光を浴びることとなった。「臨時災害放送局#阪神・淡路大震災」も参照。

明石海峡大橋の開通前であったことから、NHKでは淡路島の取材を四国の記者が担当した[71]

日本テレビのニュースキャスター木村優子が高級毛皮のコート姿で、神戸市内の被災地からリポートをして、ひんしゅくを買った。

筑紫哲也が上空からヘリコプターでリポートし、各地で立ち昇る火事の煙を「(出身地の)別府の温泉街のようだ」と発言し、批判を浴びた。

キー局となる関東広域圏各局の対応は、上記の時間が過ぎてから概ね通常の放送体制に戻っていったが、それでも、ニュースワイドショーといった多くの生放送番組など日常の番組や、「地震から2週間」「1か月」「2か月」といった節目では、被災地の状況を伝えるルポを数多く伝え、被災者への応援や義援金の呼びかけなどを行っていた。しかし、それ以外の局面では地震関連情報は全国放送から近畿広域圏のみに徐々に絞られていき、特に、約2か月後の地下鉄サリン事件が発生して以降はこの傾向が顕著となった。

奇しくも、この震災によりラジオが災害の情報源として認知されるようになった[103]

新聞

神戸新聞社は地震により本社社屋が全壊。新聞編集用コンピュータシステム(CTS、社では「ホストコンピュータ」と呼んでいた)の機器および専用高圧電源が損傷し、新聞編集が不可能になったものの、前年に京都新聞社と締結していた災害時相互援助協定を発動。8時半にようやくつながった電話(同日夕方に途絶)で情報を送ったほか社員を京都へ派遣[104] し、同社社員とともに見開き4ページの夕刊を編集し制作した。印刷用原版のフィルムは京都新聞の下請け運送会社の社員がオートバイで6時間かけて神戸市西区の印刷工場まで輸送し、当日19時31分、夕刊発行に成功した(20時頃に刷了[104])。その後、しばらくは京都へ社員を派遣しての制作が続いたが、全国の新聞社からの機材支援や取引先の全面協力により、10日後に一部のシステム再稼働に成功している。詳細は「神戸新聞の7日間」を参照

デイリースポーツは、日本経済新聞社および関連会社の全面協力を受けて東京で紙面を作成し発行を継続した。
ネット・パソコン通信・携帯電話

当時、日本のインターネットにおいて商用・個人利用はまだ始まったばかりであった[105][注釈 36]


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