闇市
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一般的に日本の「闇市」として有名なものは、第二次世界大戦太平洋戦争後の連合国軍占領下の日本混乱期に成立した商業形態である。なおこの種の市場は終戦直後は「闇市」と蔑称で呼ばれたが、その後国民生活に必要であるとの認識から「ヤミ市」と表現されるようになった。現在の日本で単に闇市と言えば普通はこれを指すことが多い。

終戦直後の日本では、兵役からの復員外地からの引揚げなどで都市人口が増加したが、政府統制物資がほぼ底を突き、物価統制令下での配給制度は麻痺状態に陥っており、都市部居住する人びとが欲する食料や物資は圧倒的に不足していた。食料難は深刻を極め1945年(昭和20年)の東京の上野駅付近での餓死者は1日平均2.5人で、大阪でも毎月60人以上の栄養失調による死亡者を出した。1947年(昭和22年)には法律を守り、配給のみで生活しようとした裁判官山口良忠が餓死するという事件も起きている。

ほとんど全ての食料を統制物資とした食糧管理制度の下では、配給以外に食料を入手することは即ち違法行為だったのである。ユニセフや占領軍の主体となったアメリカ合衆国連邦政府によるララ物資もあったものの、不足を埋めるには到底至らず、配給の遅配が相次ぐ事態となっていた[4]。このため人びとは満員列車に乗って農村へと買出しに出かけ、サツマイモのヤミ物資を背負って帰ったが、依然都市部の人々の食事は雑炊が続き「米よこせ運動」が各地で勃発した。敗戦後間もない1945年(昭和20年)11月1日に「餓死対策国民大会」が日比谷公園で開催されている。翌年の1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデーには、25万人の労働者が参加して「飯米獲得人民大会」が開催された[5]

このような状況の下で、戦時中の強制疎開空襲による焼跡などの空地でヤミ市がはじまった。神戸三ノ宮駅付近では、終戦翌日の昭和20年(1945年)8月16日にヤミ市が開かれたという[6]。同年8月17日付『京都新聞』では、京都市内での闇市の出現が報じられている[7]。東京では同年8月20日、新宿駅東口に開店した露天市がヤミ市の第1号となった[8]。その後雨後のタケノコのように各地にヤミ市ができていく。東京都北区を例にすると、赤羽・十条・王子など強制疎開で空地になっていた駅前広場にヤミ市が立った。

最初はざるに野菜を載せ、石油缶に入れて売ったりし、物々交換のようなものだった。そのうちみかん箱を置き雨戸を載せて台にして、生活用品市のようになった。さらに一間四方くらいの店になり、うどんおでんカストリ焼酎などを売るようになった。食物屋が大半であったが、日本軍や連合軍からの放出品、或いは残飯なども上手に繰り回しされ、それらが飛ぶように売れた。しかし食糧管理法はまだ生きていたので、配給以外で入手した食料は当局によって没収された[5]

生活必需品も不足しており、放出品や横流し品を販売する者や修理を請け負う者なども現れた。さらに旧制専門学校で応用化学を専攻していた辻信太郎サッカリン石鹸を自作して販売するなど、知識や能力を活かして商売を始める者もいた。

空地の出店は的屋(テキヤ)などの組織が地割を取り仕切るようになり、ゴザよしず張りなどでお互いの境界を区切り、地面に品物を並べる店や、台上に品物を並べる店のほか、食事や酒を提供する移動式の屋台も存在するようになった。やがて焼け残った廃材などでバラック建ての店が建設された。ただし空地でも所有者がいる土地に建物を建てるのは不法占拠であり、大阪府警察本部の警察部長は、この不法占拠者には外国人(第三国人)が多く、中には地主に立ち退きを要求されると暴力行為に及ぶものや、法外な立ち退き料を請求したものもあったと証言している。

こうした外国人暴力団の関与が治安を悪化させてしまい、その後の在日外国人に対する見方を醸成したとする指摘もある[9]。当時銃器を持たなかった警官隊は武装した外国人暴力団に対し無力であった。一方、1946年(昭和21年)8月1日に大阪府警察本部よって行なわれた大阪闇市封鎖などは当を得ず、却って不足に喘ぐ庶民を苦しめる結果となった[10]

1948年(昭和23年)9月29日に最高裁判所大法廷で判決が出された食糧管理法違反事件では、ヤミ米を購入し食糧管理法違反として検挙され、配給食のみでは健康を維持できないので、日本国憲法第25条2項目の生存権に反し、食糧管理法自体違憲であるとして飛越上告をし争われた(判決そのものは、「個々の国民に対して具体的、現実的にかかる義務を有するのではない」として、食糧管理法は生存権に反しないとされた)。

同年10月、主婦連合会が発足する。主婦たちはしゃもじ旗印とし、食料不足の解消を訴える活動を開始した。同年11月1日から主食配給は、2合7勺(380グラム)に増配され、人びとの食生活は落ち着きを取り戻していった。1949年(昭和24年)4月1日には野菜の統制が撤廃され、6月1日にはビアホールが解禁になり、また東京の飲食店も再開された。1950年(昭和25年)4月1日、水産物の統制が撤廃された。

同年12月1日、大蔵大臣池田勇人の答弁が「貧乏人は麦を食え」と誇張して報道され[11]、いまだ白米が行き渡らぬ家庭の反感を買うが、翌1951年(昭和26年)10月25日にはの統制撤廃が閣議決定された。これをもって米以外の食品は全て自由販売となり、ヤミ物資ではなくなった。同年12月、東京都内の常設露店は廃止となり、いわゆるヤミ市は姿を消した[5]

この常設露店は明治以降の夜店の露店も含まれる。公道上で露店を営業する商人を業界内部で平日(ヒラビ)と呼び、的屋は全国にあるタカマチと呼ばれる祭禮を巡る旅人の組織の区別があった。戦後生まれたヤミ市に潜在的失業者の露天商流入が激しくなり、警察は規則を制定する一方で自主的に統制できるように東京都露店商同業組合を作らせた。

警察署の管区ごとに組合支部が作られ、ヒラビは、的屋とともに強制的に組合に組み込まれた。組合本部及び各支部の幹部に的屋の親分が就任したが、弊害としてボスが台頭。警察もこれに対処するため露店営業取締規則を作り、一方で1947年以降はボスを取り締まった。

やがて、物流の混乱が収まりつつあると闇市も衰退。警察は経済活動への取締りをやめ、交通取締に一本化。常設露店ももとに戻るはずだったが、連合軍(情報部の公安課)は交通の邪魔になると一斉の露店廃止を、都知事、警視総監、消防総監他に勧告という形の命令を出した。

原文兵衛は当時、警視庁の交通警備のトップだったが歩道の露店が自動車の邪魔にはならないと抗議した。原は後に回顧録の中で連合軍が銀座で自動車を駐車する際に露店が邪魔だからやらせたと暴露している。

常設露店の廃止以降も立ち飲み屋などがバラック店舗で商売を継続する例もあり、特に有楽町の東口駅前にある老朽化した東京交通会館の周辺にはた立ち飲み屋や寿司屋など闇市時代から続く木造店舗が密集した「すしや横丁」は、近辺にある新聞社(朝日新聞社毎日新聞社読売新聞社など)の記者が情報交換のために集まるなど昼夜を問わず賑わっていた[12]1964年東京オリンピックの開催に際し、「すしや横丁」などが美観や防災の点から好ましくないと判断され再開発が行われた[13]
検閲

連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)はプレスコードなどを発して闇市の現状を報道禁止・検閲を実行し、闇市に関する事柄についても対象に加え言論を統制した[14][15]。「プレスコード」および「日本における検閲」を参照
主な闇市

闇市は日本各地の都市部に同時期に発生し、東京では新宿東口から新宿通りに成立していた箇所が知られる。


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