閻錫山
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1928年(民国17年)2月からは北京天津方面へ出兵して奉天派の軍を駆逐し、平津衛戍総司令に任命された。同年10月には国民政府内政部長に任じられている[15][2][3]。これにより閻錫山は、従来の根拠地山西省だけでなく、綏遠察哈爾河北・北平・天津へと勢力圏を広げたのである[16]

国民政府の北伐完成後から間もなく、反?介石派の軍閥らが次々と挙兵し、各地で戦争が頻発した。閻錫山は初め親?介石の姿勢を保っていた[17]。しかし、1930年4月、ついに他の反?介石派と連合して4月に陸海空軍総司令を自称し、中原大戦を発動した[18]。ところが、張学良が?介石を支持して関内に進軍したため、反?介石連合軍は瓦解、閻錫山は大連に逃れ、日本の庇護を受けた[19][2][3]
復帰後、山西派壊滅まで

1931年(民国20年)8月、山西に戻り、1932年(民国21年)3月に太原綏靖公署主任に任命されて復権した。1935年(民国24年)4月に陸軍一級上将銜を授与され、12月には軍事委員会副委員長に任じられている。しかし、1936年(民国25年)2月、陝西省から「東征」してきた紅軍中国共産党)に晋綏軍は惨敗を喫する。これに危機感を覚えた閻錫山は反共から「連共抗日」路線への転換を表明して共産党と和解し、9月には犠牲救国同盟会を成立させた[20][21][2][3]

1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると、第2戦区司令長官兼山西省政府主席として日本軍に対峙する。閻錫山の地盤は、日本軍、国民党中央軍、共産党軍の進出で動揺した。1939年(民国28年)には、勢力を増大させた共産党軍との間で衝突(晋西事件)も起きる。1941年(民国30年)9月には日本の「対伯工作」を利用して現地日本軍と停戦協定を締結し、兵力を温存した[22][23]

1946年(民国35年)から始まった国共内戦では、山西軍に加え、残留した日本兵(中国山西省日本軍残留問題を参照)の部隊(暫編独立第十総隊)を使い、中国人民解放軍と戦った。しかし、閻錫山は次第に劣勢に追い込まれて省会(省都)太原を人民解放軍に包囲されてしまう。1949年(民国38年)3月、代理総統李宗仁が閻錫山を召還したことも理由となり、飛行機で太原を脱出、南京に逃れた。太原では娘婿の王靖国らが残留して抗戦を継続したが、4月24日に陥落、37年もの間続いた山西派の勢力はここに消滅した[24][3]
晩年

1949年6月に行政院長国防部長に任じられたが、内戦の劣勢により広州を経て台湾に逃れた。この間、香港に逃亡した総統代理の李宗仁に代わって総統代行に就任[25]1950年(民国39年)3月1日に?介石が総統復帰を宣言するまで在職し、1950年3月までに各職を辞任する。台湾では総統府資政や国民党第7期・第8期中央評議委員を務め、その傍ら反共主義の著述に専念した。引退後は陽明山に隠居し、執筆活動に専念。手が不自由になっていたため、第2戦区司令長官就任以来秘書を務めていた原馥庭に口述筆記させていた[26]1960年(民国49年)5月23日、居宅で死去。享年78(満76歳)[27][28][3]
著作

『閻錫山の防共政策』(統治問題研究所、
1928年

『世界平和のために』(文川堂書房、1950年

『共産主義の何に反対するか?何に依って反共するのか?』(大同学社、1951年

『大同の路』(大同学社、1952年

『大同国際宣言草案』(閻錫山、1955年

脚注[脚注の使い方]^ 徐?鴻(1999)、369-370頁。
^ a b c d e 徐友春主編(2007)、2647頁。
^ a b c d e f g h i 劉国銘主編(2005)、2030頁。
^ 一時、山西陸軍小学の教官や監督を務める。
^ 「協」は、清末の新軍の編成単位。旅団に相当。
^ 「標」は、清末の新軍の編成単位。「標」は連隊に、「標統」は連隊長に相当。
^ 徐?鴻(1999)、370-373頁。
^ 1915年(民国4年)に袁世凱が皇帝に即位した際にもこれに賛同し、閻錫山は一等侯に封じられている。
^ 鉄道建設、教育機関の充実などの功績は高く、現在でも山西庶民の間で評価されている。
^ 1930年11月に下野してから1932年3月に復権するまでの期間を除く。
^ 徐?鴻(1999)、376-377頁。
^ 徐?鴻(1999)、377-378頁。
^ 中国国民党中央政治会議常務委員、党政治会議太原分会主席、国民政府軍事委員会委員等にも任命されている。
^ 以後第4期でも中央執行委員、第5期・第6期では中央常務委員にそれぞれ選出。
^ 代理として趙戴文を派遣した。
^ 徐?鴻(1999)、379-380頁。
^ 一時、馮玉祥に与して反?介石に転じる動きも見せたが、1930年(民国19年)1月に陸海空軍副総司令に任命されたため、親?介石派に留まった。
^ ?介石が、自分の権力剥奪を狙っていると確信したためという。
^ 徐?鴻(1999)、380-381頁。
^ 同時期に起こった綏遠事件では、傅作義率いる晋綏軍が日本の支援を受けた内蒙軍を撃退している。
^ 徐?鴻(1999)、381-384頁。
^ 日本軍が傀儡政権として樹立した汪兆銘政権(南京国民政府)の山西省政府は、蘇体仁ら閻錫山の腹心が長を務めており、戦争中も密かに閻錫山と提携している。
^ 徐?鴻(1999)、384-391頁。
^ 徐?鴻(1999)、391-394頁。
^ 中華民国憲法第49条の規定に基づく措置。在職期間は1949年11月20日から1950年2月28日まで。
^“我如滄海一粟,漂到台湾??専訪閻錫山秘書原馥庭先生”. 山西新聞网. (2012年4月14日). ⇒http://www.sxrb.com/culture/whkd/1412826.html 2018年3月13日閲覧。 
^ 徐?鴻(1999)、394頁。
^ 徐友春主編(2007)、2647-2648頁。


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