関西弁
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日本語のなかで古代から連続して文献資料が残る唯一の方言であり、また文芸活動の中心地であったことから、日本語史を語る上で最も重要な方言である。平安遷都後、長らくが置かれた京都では自らの方言を中央語と自負し、他地方の方言を卑しめる風潮が形成された。中世末にポルトガルなどから来日した宣教師も、公家の京都方言(御所言葉)を模範とすべき有力な日本語として扱っている(ジョアン・ロドリゲス日本大文典』など)。

歴史が変わるのは江戸時代後期、江戸幕府政権の安定に伴って江戸の町人文化が成熟し、日本の文化・経済の中心に江戸上方へ肩を並べた時代である(化政文化も参照)。江戸では町人文化の発展とともに江戸言葉の地位が向上し、上方・江戸の二つの有力方言が併存・拮抗する日本語史上唯一の事態が生じた[注 1]。現代の関西と関東の方言対抗意識はこうした歴史背景から形成されたものである。滑稽本浮世風呂』(1808年)にも江戸女と上方女の言葉争いの描写がある(以下はその一部)。「そんなら言はうかへ。江戸詞のからを笑ひなはるが、百人一首(ひやくにんし)の歌に何とあるヱ。」「ソレソレ。もう百人一首(ひやくにんし)じゃ。アレハ首(し)じゃない百人一首(ひやくにんしゆ)じゃはいな。まだまアしゃくにんしト言はいで頼母しいナ。」「そりゃア、わたしが言損(いひぞこねへ)にもしろさ。」「そこねへ、じゃない。言損(いひそこない)じゃ。ゑらふ聞づらいナ。芝居など見るに、今が最後(せへご)だ、観念(かんねん[注 2])何たら言ふたり、大願(でへがん)成就忝(かたじけ)ねへなんのかの言ふて、万歳(まんぜへ)の、才蔵(せへぞう)のと、ぎっぱな[注 3]男が言ふてじゃが、ひかり人(て)のないさかい、よう済んである。」「そりゃそりゃ。上方も悪い悪い。ひかり人ッサ。ひかるとは稲妻かへ。おつだネヱ。江戸では叱(しか)ると言ふのさ。アイそんな片言は申ません。」「ぎっぱにひかる。なるほど。こりゃ私が誤た。」

上方言葉が権威ある言葉とされた江戸中期まで、江戸の上級武士や教養層は上方言葉を真似て話していたとされる。その後江戸言葉の地位向上に伴って上方風の話し方は廃れたが、一方で上方風の言い回しは「老人の言葉」「権威者の言葉」として歌舞伎戯作などでステレオタイプ化されていった。これが「わしは知らぬのじゃ」のような老人や古風な権威者(殿様など)の役割語の起源である(老人語も参照)[8]

江戸時代は、大坂が商都として栄え、京都を凌ぐ上方最大の都市となった時代でもある。豊かな経済力を背景に上方文化の一翼を担うようになり、言語面でも大坂方言と京都方言とで対抗意識が生じた。1759年洒落本『弥味草紙』にも以下のような描写がある[9]。此ごろ京よりきたるうかれ女、なにはのどうとんぼりといへる所のうかれ里にたよりてつとめしに、やゝもすれば京ことばをもつてひとをいやしめ、大きいはいかつい、ぬくいはあたたか、其外やごとなきことばのはし\゛/をおぼへて、そのうたてさかぎりなしとや

明治東京奠都によって標準語東京方言(とりわけ山の手言葉)を基に整備され、近畿方言は一地方方言に甘んずることとなり、近畿方言も標準語の影響を受けるようになっていった。もっとも、保科孝一1915年時点で「東京語は関東方言の系統に属するものであるが、しかしこれを基礎として標準語を制定する場合には、関西方言との調和を計ることは、ある程度まで必要である。[10]」と記すなど、近代以降も一定の影響力を残した。1954年梅棹忠夫が「第二標準語論[11]」(「関東系標準語」に対抗して関西系の第二の標準語を作ろうという論)を唱えたこともあるが、実現はしなかった。
現状

話者人口の多さや京阪神の文化力・経済力を背景に、近畿方言は依然有力な方言勢力である。特に大阪弁は演芸を通じて日本全国に広く認知されている。もっとも、演芸で用いられる大阪弁は全国の視聴者に分かりやすいよう共通語を交えたり、誇張したりする場合があるため、船場言葉をはじめとする伝統的な大阪弁とは異なる「吉本弁」だと揶揄する声もある[12]

近畿方言は、単に認知度が高いだけでなく、共通語や各地の方言に影響を及ぼすこともある。「一緒[注 4]」「しんどい」「ぼやく」「まったり[注 5]」「むかつく[注 6]」「ややこしい」「ヤンキー」など幅広い語彙が共通語に取り入れられたり、「関東はバカ、関西はアホ」だったのが東京でも「アホよりバカの方がきつく聞こえる」者が多数派となったりしている[13]

認知度の高さや、近世以来の江戸・東京への対抗心などから、近畿地方では自分達の方言への愛着や自負心が強いとされる。実際、2000年に大阪で行われた意識調査では、東京の言葉に対しては7割が「嫌い」「どちらかと言えば嫌い」、地元の言葉に対しては9割が「好き」「どちらかと言えば好き」と回答している[13]。しかし他の地方と同じく共通語化・東京方言化は進んでおり、若年層では共通語や東京の若者言葉が混合した以下のようなスピーチスタイルが主流となっている(1993年に大阪府寝屋川市で記録された20歳女性と21歳女性の会話の一部[14])。A:やっぱり髪の毛さあ、このままパーマあてるか、ちょっとショートめに切るか、どうしよっかなあ、迷ってんねんやん。B:短く切ったら?A:うーん。そうやんなあ。結構、雑誌にあんまりいいの載ってないからなあ。

近畿地方には、京都の御所言葉、大阪の商人言葉(船場言葉や堂島言葉など)や芸能言葉(関西歌舞伎文楽上方落語など)、遊郭言葉(京都嶋原や大坂新町など)、志摩半島海人言葉、紀伊山地の林業や山岳信仰関係の言葉、伊勢獅子舞神楽言葉など、階層・職業別に多様な言葉遣いがあった。しかし近代以降、特に太平洋戦争後、旧来の階層社会や生活習慣が大きく変質したため、多様性は薄れている。多様性の衰退は地域間でも起こっており、交通網の発達に伴う大阪を中心とした大都市圏の拡大によって、「関西共通語」(関東のいわゆる首都圏方言に相当)とも言うべき方言に均質化しつつある。例えば、互いに意識し合い、大きな違いを見せていた京言葉と大阪弁も、そのような明確な傾向が見られるのは団塊の世代までに限られつつある。

演芸文化に支えられ、近畿圏の放送局ローカルバラエティ番組では、出演者やアナウンサーが方言でトークを進めることが珍しくなく、共通語の規範とされやすいNHKも例外ではない。方言がメディアという公の場で一定の幅を利かせているのは他の地方ではあまり見られないものである。一方で、メディアの強い影響力から、放送で話される方言は近畿方言均質化の一因にもなっている。

2014年には、facebookが関西弁を公式サポートした[15]2019年Vivaldiが関西弁の公式サポートを表明した[16]
イメージ「大阪弁#役割語としての大阪弁」および「関西人」も参照

文学ドラマ映画漫画などのフィクションでは、ステレオタイプな大阪像を念頭に置かれた関西弁が強烈な役割語としてキャラクターの差別化の記号としてよく利用される。

「役割語」の提唱者である金水敏によると、フィクションにおける大阪弁・関西弁は「快楽・欲望の肯定と追求」(金銭への執着、好色、派手など)という性質を持ったトリックスターの役どころを表す記号であり、これは江戸時代における理想主義的な江戸文化と現実主義的な上方文化の対比に端を発するという[17]。このイメージに関連して、高度経済成長期以降、菊田一夫の『がめつい奴』や花登筐の「根性もの」の流行から「ど根性」というイメージも定着している[17]

近代以降、大阪発の漫才や演芸番組がラジオテレビを通じて日本全国で人気を博したことから、「関西弁=お笑い」のイメージが強く定着した[17]。このことを井上章一は「関西語は、道化的な言い回しに、おとしめられている」と否定的に指摘している[18]。また太平洋戦争後、近畿地方を舞台とする迫力ある作品(ヤクザ映画など)の流行や、現実の近畿地方における凶悪事件の多発とその過熱報道などにより、関西弁は「暴力」などの荒々しいイメージと結び付けられるようになった[17](戦前までは、上方出身者は江戸っ子に比べて気長・柔弱・女々しいなどとされていた[17])。


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