関西国際空港
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2023年度の発着回数、旅客数、貨物取扱量[4]は下記のとおり。コロナ禍の前の2017年度実績[15]でみると、日本の空港の中では、旅客数と着陸回数は東京国際空港、成田国際空港に次ぐ第3位、国際線旅客数および国際線着陸回数は成田国際空港に次ぐ第2位である。また、同時期における日本の空港において国際線の旅客数・発着回数が国内線を大幅に上回る空港は、当空港と成田国際空港のみである。

2012年以降、LCC(格安航空会社)の拡大と大阪や京都への訪日外国人客の増加に伴って、発着回数・旅客数ともに拡大している。

2020年はコロナ禍の影響により国際線・国内線ともに大幅に減便され、同年5月の総旅客数は前年同月比99%減の3万6,113人だった[16][17]

航空機発着回数航空旅客数航空貨物取扱量
国際線120,527回19,057,949人721,243トン
国内線49,246回6,826,712人10,436トン
合計169,773回25,884,661人731,679トン

発着回数

コロナ禍の期間を除けば、開港以来年間10万回の発着数を下回ることはなく、特にいわゆる「LCC元年(2012年)」より伸びをみせている。50,000100,000150,000200,000199520002005201020152020

  国内線

  国際線

  合計

※年度別集計。単位は"回"。発着回数として離陸と着陸の総計を取っている(通常の運航1便につき発着は2回)。開港年(1994年)は年度途中からの集計であるため、年度別の本グラフでは省略されている。
旅客数

傾向としては発着回数と概ね相関し、同じくいわゆる「LCC元年(2012年)」よりの伸びが特徴である。5,00010,00015,00020,00025,00030,000199520002005201020152020

  国内線

  国際線

  合計

※年度別集計。単位は"千人"。1便の乗客の総計であり、たとえば、同空港内で乗り継いだ一人の人間は2名として計上される。開港年(1994年)は年度途中からの集計であるため、年度別の本グラフでは省略されている。
貨物量

開港以来2000年度まで取扱量は伸びたものの、以降は横這い状態が継続している。また、貨物取扱量は旅客数ほどコロナ禍の影響を受けていない。100,000200,000300,000400,000500,000600,000700,000800,000900,0001,000,000199520002005201020152020

  国内線

  国際線

  合計

※年度別集計。単位は"トン"(トン数ではなく、質量の"t")。開港年(1994年)は年度途中からの集計であるため、年度別の本グラフでは省略されている。
歴史大阪国際空港神戸空港との関係については、関西三空港の経緯と現状を参照
開港まで

1960年代に、ダグラス DC-8ボーイング707コンベア880などの大型かつ騒音も大きいジェット旅客機の就航が相次いだうえに、1964年に行われた海外旅行の自由化などで航空需要の拡大が想定されていたなか、国内線のジェット化が進んだ1960年代後半頃からは大阪国際空港では騒音などの環境問題も顕在化してきた(大阪国際空港#国際空港時代 / 大阪空港訴訟参照)。また住民訴訟が相次ぎ地元自治体などが空港廃止を求める事態になった。

国は、周辺環境対策の一環として航空機の機材や発着枠、運用時間などの制限を設けるとともに新たな空港の整備を進めたが、拡張余地が乏しく運営時間(発着可能な時間)の制約が大きい大阪国際空港のみでは将来の需要に対処できないとの想定から「関西第二空港」の建設が提起された[18]。また、1963年、総理府内近畿圏整備本部から提出された「大阪国際空港拡張整備と第2国際空港建設」計画が閣議了承された。その後1968年に運輸省が関西第二空港建設へ向けての基本調査を開始[19][20]

「関西第二空港」の建設計画が進められるにつれて、環境問題が顕在化してきたため、「関西第二空港」の建設にあたってはこれらの要素も考慮に入れる必要が出てきた。「関西第二空港」は、大阪南港沖・神戸沖・明石沖・淡路島・泉州沖などが候補地に挙げられ、泉州沖が建設地に選定された。1987年、515 haの人工島を造成して旅客ターミナルビル1棟や滑走路1本などを建設する第一期工事が着工された。この空港計画の構想から開港までの時期には、「関西新空港」の呼称も用いられた[21]

空港島の建設予定地が大水深かつ軟弱な地盤であることは当時から認識されていたが、同規模・同様の環境での埋立を短期間に造成した事例はなく[22][23]埋立地地盤沈下に対してその対策に大きな懸念があった。関西国際空港の建設費は、下記の要因により当初の想定を大幅に上回るものとなった。

騒音対策のため沿岸から5km離れた水深の深い海の埋め立てとなったこと。近年の航空機の騒音の程度を勘案すると、海岸から3km程度の距離で十分であるという指摘もあったが[24]、1974年に決定された空港の位置(沖合い5km)で建設した。一期島工事のみならず、後述の二期工事においても、より安価に済む陸地に近い側を埋め立てる案は採用されなかった[24]

物価の上昇の見誤り、予想を上回る建設中の沈下による追加工事と完成遅延に伴う金利負担、土砂購入先の吟味不足など、建設費用の管理が甘かったこと。

地元漁師などへの「漁業既得権」への補償額が当初想定を大幅に上回ったこと。漁業補償(補償金・協力金・見舞金・生活安定対策費とも)として、大阪府漁連に454億円、兵庫県漁連に323億円、和歌山県漁連に212億円、泉佐野漁協に8億円が支払われた(金額には漁業補償などとは別途に支払われた漁業振興基金などを含む)[25][26]。加えて、大阪府漁連は「操業権」なるこれまで認められたことのない権利を主張した[27]。空港工事が進むにつれ、地元漁民の要求はエスカレートしていき、当初用意していた関西国際空港株式会社の資金は底をつき、やがて"漁業マフィアなる漁協関係者たちが関西国際空港株式会社に出入りするようになった[28]。地元漁民は、関西国際空港株式会社との交渉が行き詰まると、漁船で工事海域を走り回り、空港関係者に嫌がらせを行ったという[26]

算定方法により諸説あるが、民主党加藤敏幸議員は1期工事の最終的な建設費を「1兆5000億円」としている[29]。世界的にみると、滑走路が1本の空港を作るのに1兆円以上をかけるのは異例である[30]。建設費が高騰したため、高額な着陸料や賃料などを設定することとなった。

空港1期島造成工事は1991年に完了し、1994年9月4日に開港した。開港を記念して、3種類の80円記念切手が1994年9月2日に、記念貨幣として500円白銅貨が1994年8月23日に発行された。関西国際空港開港記念500円白銅貨幣、表(左)と裏
開港から二期工事着手まで

開港当初 アンセット・オーストラリア航空のボーイング747-300

国内線の就航が少ない新東京国際空港(成田国際空港)に代わり、内際ハブ空港としての機能が見込まれた。日本航空は新東京国際空港から20機を当空港に配置転換し、大阪国際空港では同社が運航していなかった長距離国際線へ「関西エクスプレス」として参入した。また、伊丹に就航していなかったエアラインも当空港への路線を開設。KLMオランダ航空フィンランド航空(1995年4月20日から)などが大阪初就航となったほか、アンセット・オーストラリア航空エア・カナダは日本初就航を果たした。全日本空輸も、新たに大阪発着国際線に参入した。

1995年1月17日には阪神・淡路大震災が発生。震源からは離れていたものの空港ターミナルビル・関西空港駅駐車場エリアにて建物の損傷が確認された。しかし、大阪国際空港ともに、航空機の運航等に影響は出なかった[31]

業績

旅客数・発着回数などの業績は開港当初の予想を下回った。当初は、開港から2000年度まで国際線利用者数が毎年増加を続ける一方で、大阪国際空港と競合する国内線の利用者数は伸びず、2004年度には1995年度の約半分まで落ち込んだ[32]。この事態を重く見た日本国政府は、関西国際空港に配慮して[33][34][35][36]、大阪国際空港の騒音対策を徹底するために[37]、大阪国際空港への発着規制(長距離便の規制・運用航空便の小型化など)をしたこともあり、関西国際空港の航空便・旅客が増えた。


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