関白
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この詔には「関白」の語自体は用いられていないが、後の関白の職掌である天皇に太政官の決定を奏上することが書かれている[6]。これが後の関白任命の際の詔書の原点になっており、竹内理三以来平安時代史の研究家の間では、実質的な関白の始まりとして支持が多い説である[6]。一方で、任摂政の詔とは異なり、天皇を摂行するという語句はなく、光孝は基経の権限は摂政とは異なると認識していたものと見られる[6]

宇多天皇の即位後の仁和3年11月21日887年12月9日)、天皇から改めて出された国政委任の詔書は、「関白」の語源である「関り白す」の言が入った初例である。ただし、この詔書の表題は「賜摂政太政大臣関白機万機詔」であり、文中でも清和・陽成・光孝の三代に渡って「摂政」であったとしている[3]。また基経が辞退した後に出された詔書でも「辞摂政」「辞関白」の混用が見られる[3]瀧浪貞子は宇多および詔書の起草者である橘広相が、摂政と成人天皇の補佐を行う関白の違いを認識しておらず、これが阿衡事件に繋がったとしている[7]

基経の没後、宇多天皇は関白を置かなかった。しかし寛平8年(897年)、宇多は子の醍醐天皇に譲位するととともに、基経の子藤原時平菅原道真に対し、奏上する政務事項を先に閲覧する内覧宣旨を下した[8]。醍醐天皇の治世には関白は置かれなったが、時平の弟藤原忠平朱雀天皇の即位にともない摂政に任じられ、承平7年(937年)に天皇が元服したのを機に辞表を提出した。だが、折りしも承平天慶の乱が発生したために天皇はこれを慰留して乱の鎮圧に努めさせ、乱が鎮圧した天慶4年(941年)になって漸く忠平の摂政辞表は受理されたものの、直ちに基経の先例に従って関白に任じられた。天皇の成人を機に摂政が関白に転じた確実な事例はこれが最初である。

竹内理三橋本義彦は関白の任務がはっきりと別れたのは忠平の時代としているが[9]坂上康俊は宇多天皇の時代としており[8]、瀧浪貞子は忠平が関白に就任する際、『日本紀略』では「仁和の故事」にならったとしていることから、光孝天皇の時代には成人天皇を補佐する関白と摂政の役割は区別されていたとしている[10]。また、佐々木宗雄は太政大臣(元慶4年任命)基経に対して国政委任の職掌を与えたであったとし、河内祥輔は摂政任命の詔であるが基経より年長であったために文体を変えたもので、宇多天皇が阿衡の文面を撤回した仁和4年6月2日の詔も実質は摂政任命の(関白は摂政の兼職となる)であり、関白と摂政が別の職として分離するのは藤原忠平以後であるとしている。また河内は「関白」という言葉が存在しない時期にまで初例を遡って求める態度を問題視している。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}“最初の関白任命そのものは「関白」という職名が成立したときである”という考え方については支持する研究者もいる[要出典]。
摂関政治の隆盛

朱雀天皇の次の村上天皇期には関白が設置されなかったものの、冷泉天皇が即位するにあたって、太政大臣実頼が関白となった[8]。摂政を経ずに関白となったのは実頼が最初である[8]。冷泉天皇は病気が重く、実頼は准摂政宣下を受け、関白でありながら摂政に準ずる形で政務をとった[2]。しかし実頼は外戚でなかったため実権は乏しく、「揚名(名ばかり)の関白」と嘆くほどであった[11]

実頼以降は筆頭大臣が摂関となることが続いたが、986年(寛和2年)に右大臣藤原兼家が外孫一条天皇の摂政に任じられた。この時兼家の上座には太政大臣と左大臣の二人がおり、摂政の位置づけが不明確になった。一ヶ月後に兼家は右大臣を辞職し、摂政が三公(太政大臣、左大臣、右大臣)より上席を占めるという一座宣旨を受けた。この「寛和の例」以降、摂関と大臣は分離され、藤原氏の氏長者の地位と一体化していった[12]。しかしこれ以降摂関と太政大臣が陣定の指導を行う一上とならない慣例が生まれ、摂関が太政官を直接指導することは出来なくなった[13]。関白の主要な職務は太政官から上奏される文書を天皇に先んじて閲覧する内覧の権限と、それに対する拒否権を持つことであった。しかしこの対象は太政官に限られ、蔵人からの上奏は対象とならなかった[14]

兼家の死後は権力争いに勝利した道長が朝廷の主導権を握った。道長自身は関白に就くことなく、内覧および一上として政務を主導したが、事実上の関白として「御堂関白」とも呼ばれた。道長の嫡流を御堂流というのはこれに由来する。1016年(長和5年)に後一条天皇が即位すると道長は摂政となったが、間もなくその子の頼通にその座を譲った。その後も道長の外孫が天皇となることが続き、頼通は50年以上にわたって関白の座を占め続け、摂関政治の最盛期を築いた。しかし頼通は子宝に恵まれず、入内した子女も皇子を産むことはなかった。また頼通も優柔不断な性格で決断を嫌ったこともあり、責任を押しつけ合う頼通と天皇との間で政務は停滞した。こうした状況を藤原資房は、天下の災いは関白が無責任であることが原因であると記している[15]

頼通と外戚関係にない後三条天皇が即位すると、後三条の主導による政治改革が始まったことで関白の存在感は減少していった。その子の白河天皇堀河天皇に譲位して院政を開始したことや、師実師通の父子が相次いで死去し御堂流が主導権を握れなかったこともあり、摂関政治の時代は終焉を迎えた。堀河の没後に白河が鳥羽天皇を擁立すると、鳥羽の外舅にあたる藤原公実が摂政の地位を望んだ。しかし白河は御堂流直系の忠実を摂政に任じた。これ以降、外戚の有無に拘わらず、御堂流の嫡流「摂家」が摂関となる慣例が成立した[16]
摂関家の分裂

1121年(保安2年)に関白藤原忠実は白河法皇の勘気を被り、10年にわたる謹慎生活を強いられることとなった。関白は息子の忠通が継ぎ、院御所議定に加わることもあるなど、一定の影響力と権威を持った[17]。しかし1132年(天承2年)に忠実が内覧に任じられて政界復帰を果たすと、関白忠通と内覧忠実が並立する異常事態となった。忠実は忠通の弟頼長を寵愛し、近衛天皇の元服が行われた1150年(久安5年)、忠通に対して摂政の地位を譲るよう要求した。しかし忠通は拒否し、激怒した忠実は藤原氏長者の証である朱器台盤などの宝器を忠通邸から強奪して頼長を氏長者とした。しかし鳥羽法皇は忠通を関白、頼長を内覧とし、氏長者と関白が分離する事態が発生した。忠通と忠実・頼長の対立は保元の乱の一因ともなり、頼長はこの乱で敗死した。乱後には信西の主導によって忠通に氏長者補任の宣旨が下り、藤原家内の身分であった氏長者が朝廷に握られることとなった。その後の後白河院政と平氏政権で摂関家は主体性を発揮することが出来ず、さらに忠通の子の代から近衛家松殿家九条家の三系統に分裂することとなった。
中世の関白

鎌倉時代以降は政治の実権が朝廷から武家に移り、朝廷内での権力も治天の君が中心となる体制が築かれたため、関白職の政治への影響力はますます薄れていった。承久の乱後には関白九条道家が権勢を振るったが、関白の地位を息子達に譲って後も勢力を保つなど、関白の地位と権勢の分離が明らかとなった。その後九条家から二条家一条家が、近衛家から鷹司家が分立して五摂家による摂関職の継承体制が固まった。摂家は他の堂上家家礼として擬似的な主君となり、朝廷内で隔絶した地位を持つに至った。このため摂家では他の堂上家を「凡下(一般庶民の称)」と呼んでいたという[18]

建武の新政においては関白鷹司冬教が罷免され、以降関白は設置されなかったが[19]1334年元弘4年、建武元年)からは関白経験者の二条道平近衛経忠が内覧及び左右大臣に任じられている[19]


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