関白
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建武の新政においては関白鷹司冬教が罷免され、以降関白は設置されなかったが[19]1334年元弘4年、建武元年)からは関白経験者の二条道平近衛経忠が内覧及び左右大臣に任じられている[19]。しかし公家社会では関白の存在が自明のものであると考えられており、後醍醐天皇が著した『建武年中行事』でも関白の存在を前提とした記述が行われている[20]。建武政権における関白不設置はかえってその必要性を強く認識させることとなった[20]。建武3年(1337年)には足利尊氏が光明天皇を擁立し、北朝において近衛経忠が関白に任じられ、4年ぶりに関白が復活した[20]。南朝においては正平一統にあたって初めて関白が任じられ、以降は常置となった[21]

戦国時代になると、摂関家は朝廷儀式に関わることがほとんど無くなり、女房など女官を出すことも無くなった。このため室町・戦国期を通じて摂関家が外戚となった例は一例も無い[22]。摂関家が比較的経済状態がよかったことや、皇室や廷臣と所領や権利をめぐる競合関係があったことが理由ではないかと考えられている[23]
近世の関白

安土桃山時代羽柴秀吉が「関白相論」問題を機に近衛前久猶子となって関白に就任し、日本で初の武家関白となる。さらに秀吉が豊臣姓を賜ったことで、藤原氏でも五摂家でもない関白職が誕生することとなった。その後、秀吉は羽柴家世襲の武家関白による政権(武家関白制)の実現のために、にして養子であった秀次が関白職及び家督を継承した。しかし、秀次は関白職にありながら、実権は太閤たる秀吉の掌中にあり、後に秀吉と対立して失脚することとなった。その後も豊臣政権は続いたが、秀吉は幼い息子秀頼の成人まで関白を置かない方針であった。だが、秀吉の死後関ヶ原の戦い以降は次第に天下の実権は徳川家に移り、関白職は再び五摂家の任ぜられる職となった。その後豊臣家は大坂の陣で滅亡したため、関白職に復帰することはなかった。

江戸時代の摂政・関白は豊臣家滅亡後に制定された禁中並公家諸法度第三条は摂関および三公には、政務に通じている必要がると規定され、関白の進退はすべて幕府との協議と承認を必要とするようになった[24]。関白には幕府から役料として500石、さらに藤氏長者の役料500石が支給された[24]

江戸期では天皇の政務を補佐し、決定を執行する職制が構成され、この執行部によって朝廷の運営が行われていくこととなる。執行部の構成は関白と武家伝奏、そして貞享3年(1668年)に設置された議奏であった[25]。中でも関白は職制における地位と、伝統的な家格、そして幕府の後ろ盾により飛び抜けた権威と権力を持つようになった[26]。会議は関白の主宰で行われるようになり、改元や任官などの重要事項も関白が自己が主宰した会議の決定を武家伝奏などを通じて幕府に諮るという手続が確立されたために、朝廷内において大きな権力を有するようになった。また、公家の中で関白にのみ御所への日参が義務付けられ、天皇の側近くで影響力を保つこととなった。

寛永14年12月(1638年1月)、後水尾上皇は、娘の明正天皇が成人するにあたって、摂政二条康道を関白にし、明正天皇に神事や節会を行わせようとした。ところが京都所司代板倉重宗は事前に相談がなかったと激怒し、将軍徳川家光の体調不良を理由にこれを門前払いした。この反応に後水尾上皇は「復辟」の計画を断念し、明正天皇は政務や神事に携わることなく、関白が置かれることもなかった[24]

家光以降、江戸幕府将軍正室御台所)と御三家等の正室は、皇族および摂家から嫁ぐ慣例となっていた。近衛基煕の娘近衛熈子徳川家宣の正室となり、徳川家継徳川吉宗時代にも強い影響を及ぼした。基煕は霊元上皇との関係が悪く、東山天皇期になってようやく関白となったが、以降は公家における江戸期初の太政大臣に任官した。これ以降の太政大臣は、原則として天皇および儲君(天皇の後継者候補)の元服の際に任官されることが通例となったが、すべて現職の関白および関白経験者が任官している。

基本的に摂家および関白は幕府のもとで摂家が主導する朝廷秩序の維持を目的としており、その秩序を乱す動きを警戒していた。霊元上皇は朝儀の再興を図ることに熱心であったが、幕府の十分な協力を得られない状態で大嘗会の再興を行ったため、資金不足で儀式は簡略され地下官人にも手当が行き渡らず極めて不評であった[27]東山天皇と関白近衛基熙は霊元の影響力排除に動き、幕府の協力を得て霊元上皇派の人物を要職から追放した[28]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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