関東軍
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以降、関東軍は規模を拡大させ、1941年(昭和16年)の最大規模時には総員74万人を数えるほどになり、1945年(昭和20年)8月9日ソ連侵攻で壊滅するまで、満洲国の実質的な統治を行った。

「関東軍」の名称は、警備地であった中国東北部の関東州に由来するもので(関東とは、万里の長城の東端とされた山海関の東側、つまり満洲全体を意味する)、日本の関東地方とは無関係である。
歴史

日露戦争後にロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満洲鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身。1919年大正8年)に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍朝鮮軍支那駐屯軍などと同じ、たる関東軍として独立した。司令部は同年4月12日、関東州旅順市初音町に設置され、翌日13日から事務を開始した[1]。当初の編制独立守備隊6個大隊を隷属し、また日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団(隷下でなくあくまで指揮下)のみである小規模な軍であった。

1919年4月25日、関東都督府旅順陸軍軍法会議を関東軍旅順陸軍軍法会議に、関東都督府遼陽陸軍軍法会議を関東軍遼陽陸軍軍法会議と改称することを決定し同年5月1日に施行した[2]。同年5月16日、関東軍憲兵隊を配置した[3]

1928年には、北伐による余波が満洲に及ぶことを恐れた関東軍高級参謀河本大作陸軍歩兵大佐らが張作霖爆殺事件を起こす。しかし、張作霖の跡を継いだ息子張学良は、国民政府への帰属を表明し(易幟)、工作は裏目となった。そのため1931年石原莞爾作戦課長らは柳条湖事件を起こして張学良の勢力を満洲から駆逐し、翌1932年、満洲国を建国する。当初、犬養毅首相は満洲国承認を渋るが、海軍青年士官らによる五・一五事件により殺害され、次の斎藤実内閣日満議定書を締結して満洲国を承認する。その後、関東軍司令官は駐満大使を兼任するとともに、関東軍は満洲国軍と共に満洲国防衛の任に当たり、一連の満蒙国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満洲国の主張する国境線を守備する。関東軍司令部は、1934年に満洲国の首都新京市(満洲国消滅後、旧名の長春に戻る)に移った。

一方で、1917年ロシア革命とその後の混乱に中で建国されたソビエト連邦は、ロシア帝国より弱体化していたが、1930年代中盤頃までに第1次及び第2次五カ年計画を経て急速にその国力を回復させていた。当初日本側は赤軍の実力を過小評価していたが、ソ連は日本を脅威とみなして着実に赤軍の極東軍管区の増強を続けていた。1938年張鼓峰事件朝鮮軍隷下の第19師団が初めて赤軍と交戦し、その実力は侮りがたいことを知る。さらに1939年ノモンハン事件では、関東軍自身が交戦するものの大きな損害を被り、日本陸軍内では北進論が弱まる契機となった[4]。なお、ノモンハン事件の引責で植田謙吉司令官、磯谷廉介参謀長ほか多くの将校が更迭または予備役編入されている。

これらの武力衝突により、赤軍の脅威が認識されたことや第二次世界大戦欧州戦線の推移などにより関東軍は漸次増強され、1936年には、関東軍の編制は4個師団及び独立守備隊5個大隊となっていた。そして、翌1937年の日中戦争勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、1941年には14個師団にまで増強された。加えて日本陸軍は同年6月に勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は最大の総員74万人に達し、「精強百万関東軍」、「無敵関東軍」などと謳われた。


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