関東軍特種演習
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ところが、6月21日になって突然独ソ戦が勃発したため、演習を取りやめ急遽対ソ戦準備へ方針転換しようと画策するグループが参謀本部で台頭、関東軍は開戦には慎重だったが[9]、6月26日に、軍事演習を偽装しつつ対ソ戦準備を目的とし、かつ計画を秘匿するために「関東軍特種演習 (関特演)」と呼ぶことが正式決定された[8][注 4]

しかし、一方で、元の「関東軍特別演習」の中止が正式決定されたのは7月2日だったので、6月26日から7月2日の間、2つの異なる演習が計画されていたことになる[8]。名称を巡る混乱の一端はここにあった。

その他にも、対ソ戦の偽装としての1941年の関東軍特種演習の他に、毎年、年に数回実施されていた単なる軍事演習が「関東軍特種演習」と呼ばれていたことも混乱に拍車をかけることになっている[10]。6月26日発出の関参一発第二二五六号に「関東軍特種演習 (関特演)」と「関特演」の略称が付され、以後、この名前が使われるようになったのは、従前の「関東軍特種演習」と区別する必要があったためのようである[10]

しかし一方で、関東軍とは別に参謀本部側では、百号動員 (関特演は2回に分けて動員される予定になっていたので、第1次動員を一〇一号、第2次動員を一〇二号と呼んだ) と呼んでおり、当時から必ずしも関特演で統一的に呼ばれていたわけではない点にも留意する必要がある[6]
ソ連による対日参戦正当化

戦後ソ連政府は、首都モスクワにドイツ軍が迫っている時に、関東軍特種演習が行われたことによってモスクワ救援のための部隊をシベリア方面からの移送が妨げられた事は日ソ中立条約違反の利敵行為であるとしてこれを非難して、この時点で日ソ中立条約は効力が「事実上」消滅しており、ソ連対日宣戦布告が中立条約期限切れである1946年4月以前に行われていても国際法上問題は無いと主張し、ソ連対日参戦を正当化する論拠とした[11]

なお、ヤルタ会談でソ連が対日参戦を秘密裏に決めた後の1945年4月5日、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使を呼び、日ソ中立条約を破棄する旨を通告した(モロトフが佐藤に対して「ソ連政府の条約破棄の声明によって、日ソ関係は条約締結以前の状態に戻る」と述べた)が、佐藤が条約の第3条に基づけばあと1年は有効なはずだと返答したのを受け、モロトフは「誤解があった」として日ソ中立条約は1946年4月25日までは有効であることを認めている[12][13]
脚注[脚注の使い方]
^ 太平洋戦争後の諸文献では「関東軍特別演習」と書くものが多く、正式名称は論争の的になっていた[7]
^ 木坂自身、文部省による教科書検定を受けた際に「特別演習」と書いたところ、調査官から、防衛庁の『戦史叢書』の中に「特種」と書かれていることを指摘され修正した経緯があり、その時の経験を江口が木坂から教えられた[8]
^ 関参一発第二二五六号に「特種」と書かれていること、『戦史叢書 関東軍〈2〉』(朝雲新聞社刊、1974年) に書かれている内容 (最初は「特種」だったものが、7月11日付の大陸命第五〇六号で正式名称が「特別」へ変更となった) は聞き取り調査に基づいた記述であり、原資料にあたると実際には誤りだったことがわかった[8]
^ 関東軍参謀長の吉本貞一中将から「平時的事項と截然区別するを要するもの」に「関東軍特種演習の秘匿名称を使用することに定められた」旨、関東軍全部隊に6月26日付 (関参一発第二二五六号) で通牒された[8][1]

出典^ a b c 秦郁彦『昭和史の謎を追う』 上、文藝春秋、1999年12月10日、314-315,306-307頁。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4-16-745304-5。 
^ “第二次世界大戦、日本にも響いた独ソ戦の要諦 ソ連という巨大な岩塊は流れを転回させた”. 東洋経済オンライン. (2019年9月18日). https://toyokeizai.net/articles/-/301883 2021年10月27日閲覧。 
^ “ポトダーウィン占領後、ソ連も攻撃”. 朝日新聞. (1946年11月2日) 
^ 『満州国崩壊8・15』潮書房光人新社、2021年6月24日、35頁。 
^ a b 『中国残留邦人』岩波書店、2008年3月19日、51-54頁。 
^ a b 秦『昭和史の謎を追う』(上) p.307.
^ 秦『昭和史の謎を追う』(上) pp.306-307.
^ a b c d e f g h i 江口圭一「「関特演」の正式名称―「特別」か「特種」か―」『日本史研究』第268巻、1985年12月、65-71頁。 
^ 及川琢英『関東軍―満洲支配への独走と支配』中央公論新社中公新書〉、2023年5月25日、254頁。ISBN 978-4-12-102754-2。 
^ a b 及川『関東軍』p.255.
^ 大沼保昭「東京裁判から戦後責任の思想へ」(東信堂 1997年)[要ページ番号]
^ 長谷川毅『暗闘(上)』中公文庫、2011年、pp.194 - 95
^ ボリス・スラヴィンスキー、高橋実・江沢和弘訳『考証 日ソ中立条約』岩波書店、1996年、p.313

参考文献

島田俊彦
『関東軍 在満陸軍の独走』中公新書 1965年

関連項目

動員

日ソ国境紛争

虎頭要塞

第27回全国中等学校優勝野球大会


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