関東大震災
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震災発生後、混乱に乗じた朝鮮系日本人による凶悪犯罪、暴動などの噂が行政機関や新聞、民衆を通して広まり[54][55][51][56]、民衆・警察・軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が発生した[57][58][59]

これらに対して9月2日に発足した第2次山本内閣は9月5日、民衆に対して朝鮮人に不穏な動きがあれば軍隊および警察が取り締まるため、民間人に自重を求める「内閣告諭第二号」(鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件)を発した[60][61]。?閣告諭第二號

今次ノ震災ニ乗シ一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ対シ頗フル不快ノ感ヲ抱ク者アリト聞ク 鮮人ノ所爲若シ不穩ニ亙ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官ニ通告シテ其ノ處置ニ俟ツヘキモノナルニ 民衆自ラ濫ニ鮮人ニ迫害ヲ加フルカ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戻スルノミナラス又諸外國ニ報セラレテ決シテ好マシキコトニ非ス事ハ今次ノ唐突ニシテ困難ナル事態ニ際會シタルニ基因スト認メラルルモ 刻下ノ非常時ニ當リ克ク平素ノ冷靜ヲ失ハス愼重前後ノ措置ヲ誤ラス以テ我國民ノ節制ト平和ノ精神トヲ發揮セムコトハ本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ大正十二年九月五日        ?閣總理大臣

この内閣告諭第二号と同じ日、官憲は臨時震災救護事務局警備部で「鮮人問題ニ関スル協定」という極秘協定を結んだ[53]。協定の内容は、官憲・新聞などに対しては一般の朝鮮人が平穏であると伝えること、朝鮮人による暴行・暴行未遂の事実を捜査して事実を肯定するよう努めること、国外に「赤化日本人及赤化鮮人が背後で暴動を煽動したる事実ありたることを宣伝」することである[53]。こうした対応について、金富子は日本政府が国家責任回避のため、自警団・民衆に責任転嫁し、また実際に朝鮮人がどこかで暴動を起こしたという事実がないか必死に探し回ったものだとしている[53]

軍は流言が救護活動に支障を来さないように、在郷軍人会の救援隊に「朝鮮人全てが不良ではない。『博愛衆に及ぼす』は国民道徳の神髄」など教育勅語を引用した「心得」を配布していた[26]
流言の拡散と検証、収束

一方で震災発生後、内務省警保局警視庁は朝鮮人が放火し暴れているという旨の通達を出していた[59]。具体的には、戒厳令を受けて警保局(局長・後藤文夫)が各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電した。

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」

さらに警視庁からも戒厳司令部宛に

「鮮人中不逞の挙について放火その他凶暴なる行為に出(いず)る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。この際これら鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし」

と“朝鮮人による火薬庫放火計画”なるものが伝えられた[62]。また警視庁は「デマをばら撒くことは処罰される」というビラを貼り付けた。

当時はテレビはむろん、ラジオも日本にはなく新聞のみが唯一のマスメディアだった。記事の中には「内朝鮮人が暴徒化[注釈 7]した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。こうした報道の数々が9月2日から9月6日にかけ、大阪朝日新聞・東京日日新聞・河北新聞で報じられている。大阪朝日新聞においては、9月3日付朝刊で「何の窮民か 凶器を携えて暴行 横浜八王子物騒との情報」の見出しで「横浜地方ではこの機に乗ずる不逞鮮人に対する警戒頗る厳重を極むとの情報が来た」とし、3日夕刊(4日付)では「各地でも警戒されたし 警保局から各所へ無電」の見出しで「不逞鮮人の一派は随所に蜂起せんとするの模様あり・・・」と警保局による打電内容を、3日号外では東朝(東京朝日新聞)社員甲府特電で「朝鮮人の暴徒が起つて横濱、神奈川を經て八王子に向つて盛んに火を放ちつつあるのを見た」との記者目撃情報が掲載されている。また、相当数の民衆によってこれらの不確かな情報が伝播された[57]海軍無線電信所船橋送信所は流言をそのまま伝えたため、後日、所長の大森大尉は免職になったという[63]

これらの情報の信憑性については2日以降、官憲や軍内部において疑念が生じ始めた。2日に届いた一報に関しては第一師団(東京南部担当)が検証したところ虚報だと判明、3日早朝には流言にすぎないとの告知宣伝文を市内に貼って回っている[64]。5日になり、見解の統一の必要性に迫られた官憲内部で精査のうえ、戒厳司令部公表との通達において

「不逞鮮人については三々五々群を成して放火を遂行、また未遂の事件もなきにあらずも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。出所不明の無暗の流言蜚語に迷はされて、軽挙妄動をなすが如きは考慮するが肝要であろう」

と発表[54]。「朝鮮人暴動」の存在を肯定するも流言が含まれる旨の発表が行われた。
治安維持緊急勅令の発布

こうした流言の存在をきっかけとして、前内閣では廃案となった司法省作成の「過激社会運動取締法案」の代わりに、7日には緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」(勅令403号)が出された(この時の司法大臣は、前日まで大審院長だった思想検事系の平沼騏一郎枢密院議長は司法官僚の清浦奎吾だった)。これがのちの治安維持法の前身である。8日には東京地方裁判所検事正南谷智悌が「鮮人の中には不良の徒もあるから、警察署に検束し、厳重取調を行っているが、或は多少の窃盗罪その他の犯罪人を出すかも知れないが、流言のような犯罪は絶対にないことと信ずる」と、流言と否定する見解を公表した[65]

震災後1か月以上が経過した10月20日、日本政府は「朝鮮人による暴動」についての報道を一部解禁し、同時に暴動が一部事実だったとする司法省発表を行った。ただし、この発表は容疑者のほとんどが姓名不詳で起訴もされておらず信憑性に乏しく、自警団による虐殺や当局の流言への加担の責任を隠蔽、または朝鮮人に転化するために政府が「でっち上げた」ものとの説もある[53]

当時、警視庁官房主事だった正力松太郎は、「朝鮮人来襲騒ぎ」について、来襲は虚報だったとし、警視庁も失敗したと述べている[66][67]
緊急勅令による戒厳令の一部規定の適用

警視総監赤池濃が「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣水野錬太郎に「戒厳令による戒厳の布告を建言した。水野も朝鮮総督府政務総監時代の1919年9月2日(地震の4年前)、独立党党員に爆弾を投げられ重傷を負ったことがある[68]。これを受け、9月2日には、東京府下5郡に緊急勅令により戒厳令の一部規定適用を布告し、3日には東京府と神奈川県全域にまで広げた[57]。この戒厳令規定一部適用の勅令が水野内務大臣の最後の公務となり、内務大臣の役職は後藤新平に引き継がれた[69]。一方で戒厳令のほか、経済的には非常徴発令・暴利取締法・臨時物資供給令・モラトリアムが施行された[70]。陸軍は戒厳令のもと騎兵を各地に派遣し、軍隊の到着を人々に知らせたがこのことは人々に安心感を与えつつ、流言が事実であるとの印象を与え不安を植えつけたとも考えられる[57]。この戒厳令により、警官の態度が高圧化したとの評価もある[57]
自警団による暴行

軍・警察の主導で関東地方に4,000もの自警団が組織され、集団暴行事件が発生した[58][71]。横浜地区では刑務所から囚人が解放されていたため、自警団の活動に拍車がかかった[72]。これら自警団の行動により、朝鮮人だけでなく、中国人、日本人なども含めた死者が出た。朝鮮人かどうかを判別するためにシボレスが用いられ、国歌を歌わせたり[73]朝鮮語では語頭に濁音がこないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしている[注釈 8]


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