関東大震災
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

このころ気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失し多くの地震記録を失った[43]。気象記録としては無効とされ抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。
首都機能の麻痺

震災当時、通信・報道手段としては電報と新聞が主なものだった(ラジオ放送は実用化前で[注釈 6]電話も一般家庭に普及していなかった)が、当時東京にあった16の新聞社は、地震発生により活字ケースが倒れて活字が散乱したことで印刷機能を失い、さらに大火によって13社を焼失、報道機能は麻痺した。東京日日新聞(現在の毎日新聞の前身)・報知新聞都新聞は焼け残り、もっとも早く復旧した東京日日は9月5日付夕刊を発行した。

郵便制度も同様だった。普通切手はがき、そして印紙も焼け、一部に至っては原版までも失われた。全国各地の郵便局の在庫が逼迫することが予想されたため、目打なしの震災切手と呼ばれる臨時切手が民間の印刷会社(精版印刷・大阪、秀英舎・東京)に製造を委託され、9種類が発行された。その他にはがき2種類、印紙なども同様にして製造された。

11月に発行を予定していた、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)と良子女王(のちの香淳皇后)との結婚式記念切手「東宮御婚儀」4種類のほとんどが逓信省の倉庫で原版もろとも焼け、切手や記念絵葉書は発行中止(不発行)となった[44]。その後、当時日本の委任統治領だった南洋庁パラオ)へ事前に送っていた分が回収され、皇室関係者と逓信省関係者へ贈呈された。結婚式自体は1924年(大正13年)の1月に延期して挙行された。

関東以外の地域では、通信・交通手段の途絶も加わって伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり、新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」「津波、赤城山麓にまで達する」「政府首脳の全滅」「伊豆諸島の大噴火による消滅」「三浦半島の陥没」などといったやデマの情報が取り上げられた[45]真鶴駅?根府川駅間の寒ノ目山トンネルで埋没した上り第116列車の牽引機関車。

震央から約120kmの範囲内にあった国有鉄道の149トンネル(建設中を含む)のうち、93トンネルで補修が必要となった。激しい被害を受けたのは、熱海線(現在の東海道線)小田原?真鶴間で、11本あるトンネルのうち7本に大規模な損傷がでる被害を生じた。地滑りや斜面崩落により坑口付近の崩落や埋没を生じたが、坑口から離れた場所でも亀裂や横断面の変形を生じている。深刻な被害を生じたのは、根ノ上山トンネル(熱海線:早川?根府川間)、与瀬トンネル(中央線:相模湖?藤野間)、南無谷トンネル(現在の内房線:岩井?富浦間)[46]
土砂災害

丹沢山地では多くの表層崩壊を生じた[47]。特筆する災害の例として、神奈川県小田原市白糸川では地震発生当日に主震動によって斜面の崩落や崩壊が生じ山津波(岩屑流)となり、小田原市根府川沿い集落の123戸中64戸を埋没させ300人を超える犠牲者があった[48]。この山津波は約6kmを5分程度で流下した。なお、この山津波と根府川駅列車転落事故を生じた地滑りとは別のものである[48]

更に、9月12日から9月15日の大雨によって 166箇所の土砂災害、12箇所の河道閉塞が発生し、土砂災害による死者は1,053人以上、建物約500戸に被害が及んだ[49]

現在の秦野市では地震動によって市木沢(いちきさわ)最上部付近の丘陵が200mにわたって崩落し、下校途中の女児2名が行方不明となった。崩落土の河道閉塞で、新たな湖が生まれた[50]。この湖は「震生湖」と命名され、令和の現在では市民の憩いの場となっている。
地震の混乱で発生した事件
司法・法制の動き「#治安維持緊急勅令の発布」および「#戒厳令発布」を参照各地裁判所及び刑務所の処置を報告する法曹会雑誌(10月)。

司法省および法曹会の下で、受刑者を一時解放した刑務所もあった。横浜刑務所では受刑者を名古屋へ移送することが9月7日になって決まり、同日に貼り紙による告知が行われたものの解放された受刑者821名のうち、翌日早朝の期限までに戻ってきた受刑者は565名のみだった。

なお、この9月7日は治安維持法の前身となる緊急勅令が出された日でもあった。1923年10月22日付東京時事新報[51]。震災後、多くの新聞社が流言の拡散に加担した(内閣府、災害教訓に関する専門調査会、平成20年3月報告書『1923年関東大震災、第2編』https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html )




9月3日 亀戸事件(当事者は警察署と自警団)、東京地方裁判所管

9月6日 福田村事件(当事者は自警団)、千葉地方裁判所管

9月7日 『治安維持ノ爲ニスル罰則ニ關スル件』(勅令第403号)が発布。

9月16日 甘粕事件(大杉事件、当事者は憲兵隊)、東京地方裁判所管

軍活動

陸軍の中では、震災後の混乱に乗じて社会主義自由主義の指導者を殺害しようとする動きもみられた。

甘粕事件(大杉事件)では、大杉栄伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが憲兵隊甘粕正彦らに殺害され[52]亀戸事件では、労働運動の指導者である平澤計七ら13人が亀戸警察署で近衛師団に属する習志野騎兵第13連隊に銃殺され、平澤は斬首された。
震災後の殺傷事件「本庄事件 (1923年)」も参照「関東大震災朝鮮人虐殺事件」も参照朝鮮人が暴徒となって放火していると伝える大阪朝日新聞(1923年9月3日号外)。デマを流す者に対して警告する警視庁のビラ。記事差し止め解除を受けて朝鮮人の事件を伝える東京時事新報(1923年10月22日)司法省が責任転嫁のために発表した実在性に疑問のある情報がベースとなっている。[53]

震災発生後、混乱に乗じた朝鮮系日本人による凶悪犯罪、暴動などの噂が行政機関や新聞、民衆を通して広まり[54][55][51][56]、民衆・警察・軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が発生した[57][58][59]

これらに対して9月2日に発足した第2次山本内閣は9月5日、民衆に対して朝鮮人に不穏な動きがあれば軍隊および警察が取り締まるため、民間人に自重を求める「内閣告諭第二号」(鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件)を発した[60][61]。?閣告諭第二號

今次ノ震災ニ乗シ一部不逞鮮人ノ妄動アリトシテ鮮人ニ対シ頗フル不快ノ感ヲ抱ク者アリト聞ク 鮮人ノ所爲若シ不穩ニ亙ルニ於テハ速ニ取締ノ軍隊又ハ警察官ニ通告シテ其ノ處置ニ俟ツヘキモノナルニ 民衆自ラ濫ニ鮮人ニ迫害ヲ加フルカ如キコトハ固ヨリ日鮮同化ノ根本主義ニ背戻スルノミナラス又諸外國ニ報セラレテ決シテ好マシキコトニ非ス事ハ今次ノ唐突ニシテ困難ナル事態ニ際會シタルニ基因スト認メラルルモ 刻下ノ非常時ニ當リ克ク平素ノ冷靜ヲ失ハス愼重前後ノ措置ヲ誤ラス以テ我國民ノ節制ト平和ノ精神トヲ發揮セムコトハ本大臣ノ此際特ニ望ム所ニシテ民衆各自ノ切ニ自重ヲ求ムル次第ナリ大正十二年九月五日        ?閣總理大臣


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:247 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef