関東大震災
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これを受け、9月2日には、東京府下5郡に緊急勅令により戒厳令の一部規定適用を布告し、3日には東京府と神奈川県全域にまで広げた[57]。この戒厳令規定一部適用の勅令が水野内務大臣の最後の公務となり、内務大臣の役職は後藤新平に引き継がれた[69]。一方で戒厳令のほか、経済的には非常徴発令・暴利取締法・臨時物資供給令・モラトリアムが施行された[70]。陸軍は戒厳令のもと騎兵を各地に派遣し、軍隊の到着を人々に知らせたがこのことは人々に安心感を与えつつ、流言が事実であるとの印象を与え不安を植えつけたとも考えられる[57]。この戒厳令により、警官の態度が高圧化したとの評価もある[57]
自警団による暴行

軍・警察の主導で関東地方に4,000もの自警団が組織され、集団暴行事件が発生した[58][71]。横浜地区では刑務所から囚人が解放されていたため、自警団の活動に拍車がかかった[72]。これら自警団の行動により、朝鮮人だけでなく、中国人、日本人なども含めた死者が出た。朝鮮人かどうかを判別するためにシボレスが用いられ、国歌を歌わせたり[73]朝鮮語では語頭に濁音がこないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしている[注釈 8]。「白い服装だから朝鮮人だろう」という理由で、日本海軍の将校ですら疑われた[63]。また福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、東京聾唖学校の生徒の約半数が生死がわからない状態になり、卒業生の一人は殺された[74]。9月4日、埼玉県の本庄町(現本庄市)で、住民によって朝鮮人が殺害される事件が起きた(本庄事件)。同日、熊谷町(現熊谷市)、5日には妻沼町でも同様の事件が発生している。9月5日から6日にかけて、群馬県藤岡町(現藤岡市)では藤岡警察署に保護された砂利会社雇用の在日朝鮮人ら17人が、署内に乱入した自警団や群衆のリンチにより殺害されたことが、当時の死亡通知書・検視調書資料により確認できる(藤岡事件)[75]

横浜市の鶴見警察署長・大川常吉も保護下にある朝鮮人ら300人の奪取を防ぐために、1千人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升びんの水を飲み干したという[注釈 9]。大川は朝鮮人らが働いていた工事の関係者と付き合いがあったとみられている[59]。また軍も多くの朝鮮人を保護した。当時横須賀鎮守府長官野間口兼雄の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」[45]などのデマに惑わされず、海軍陸戦隊の実弾使用申請や、在郷軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった[73]。横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している[76]。現在の千葉県船橋市丸山にあった丸山集落では、それ以前から一緒に住んでいた朝鮮人を自警団から守るために一致団結した[59]。また朝鮮人を雇っていた埼玉県の町工場の経営者は、朝鮮人を押し入れに隠し、自警団から守った[59]

警官手帳を持った巡査が憲兵に逮捕され、偶然居合わせた幼なじみの海軍士官に助けられたという逸話もある[77]。当時早稲田大学在学中だったのちの大阪市長・中馬馨は、叔母の家に見舞いに行く途中で群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」するほどの暴行を受けたという[78]。歴史学者の山田昭次は、残虐な暴行があったとしている[59]

10月以降、暴走した自警団は警察によって取り締まられ、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし「愛国心」によるものとして情状酌量され、そのほとんどが執行猶予となり、残りのものも刑が軽かった[58][79]。福田村事件では実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚で恩赦になった[79]。自警団の解散が命じられるようになるのは11月のことである。
被害者数警視廳保護鮮人収容所 (目K競馬場), 九月十三日牛込神樂坂警察署ニテ領置セル自警團員ノ戎兇器

殺害された人数は複数の記録、報告書などから研究者の間で分かれており明確になっていない[80]中央防災会議(事務局は内閣府)は虐殺による死者は震災による犠牲者の1から数パーセントに当たるとする報告書を作成している[57]吉野作造の調査では2,613人[注釈 10]上海大韓民国臨時政府の機関紙『独立新聞』社長の金承学の調査では6,661人という数字があり[注釈 11]、幅が見られる[81]。犠牲者を多く見積もるものとしては、大韓民国外務部長官[注釈 12]による1959年の外交文章内に「数十万の韓国人が大量虐殺された」との記述がある[82]内務省警保局調査(「大正12年9月1日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名だった[81]。なお立件されたケースの被害者数を合算すると233人となる[83]

2013年6月には、韓国の李承晩政権時代に作成された被害者289人の名簿が発見され、翌年には目撃者や遺族の調査が開始された[84]。2015年1月18日に第1次検証結果では名簿からは289人のうち18人が虐殺されたもの、名簿にない3名が新たに被害者として確認されたと韓国政府は主張した[85]。最終的に2015年12月に検証結果が報告され、韓国政府発表では名簿からは289人のうち28人が虐殺されたものと主張を確定した[86]
岸田内閣・松野官房長官の発言

岸田文雄内閣官房長官松野博一は、震災発生100年を2日後に控えた2023年8月30日、首相官邸での記者会見において、共同通信の記者から、関東大震災の記録について「当時、被災地ではデマが広がり、多くの朝鮮人が、軍、警察、自警団によって虐殺されたと伝えられています。政府として朝鮮人虐殺をどう受け止め、何を反省点としているのか」などの質問を受けた[87][88][89]

これに対して、松野は「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらないところであります」などと述べた[87][88][89]


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