関東大震災
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また、相当数の民衆によってこれらの不確かな情報が伝播された[57]海軍無線電信所船橋送信所は流言をそのまま伝えたため、後日、所長の大森大尉は免職になったという[63]

これらの情報の信憑性については2日以降、官憲や軍内部において疑念が生じ始めた。2日に届いた一報に関しては第一師団(東京南部担当)が検証したところ虚報だと判明、3日早朝には流言にすぎないとの告知宣伝文を市内に貼って回っている[64]。5日になり、見解の統一の必要性に迫られた官憲内部で精査のうえ、戒厳司令部公表との通達において

「不逞鮮人については三々五々群を成して放火を遂行、また未遂の事件もなきにあらずも、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあれば、最早決して恐るる所はない。出所不明の無暗の流言蜚語に迷はされて、軽挙妄動をなすが如きは考慮するが肝要であろう」

と発表[54]。「朝鮮人暴動」の存在を肯定するも流言が含まれる旨の発表が行われた。
治安維持緊急勅令の発布

こうした流言の存在をきっかけとして、前内閣では廃案となった司法省作成の「過激社会運動取締法案」の代わりに、7日には緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」(勅令403号)が出された(この時の司法大臣は、前日まで大審院長だった思想検事系の平沼騏一郎枢密院議長は司法官僚の清浦奎吾だった)。これがのちの治安維持法の前身である。8日には東京地方裁判所検事正南谷智悌が「鮮人の中には不良の徒もあるから、警察署に検束し、厳重取調を行っているが、或は多少の窃盗罪その他の犯罪人を出すかも知れないが、流言のような犯罪は絶対にないことと信ずる」と、流言と否定する見解を公表した[65]

震災後1か月以上が経過した10月20日、日本政府は「朝鮮人による暴動」についての報道を一部解禁し、同時に暴動が一部事実だったとする司法省発表を行った。ただし、この発表は容疑者のほとんどが姓名不詳で起訴もされておらず信憑性に乏しく、自警団による虐殺や当局の流言への加担の責任を隠蔽、または朝鮮人に転化するために政府が「でっち上げた」ものとの説もある[53]

当時、警視庁官房主事だった正力松太郎は、「朝鮮人来襲騒ぎ」について、来襲は虚報だったとし、警視庁も失敗したと述べている[66][67]
緊急勅令による戒厳令の一部規定の適用

警視総監赤池濃が「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣水野錬太郎に「戒厳令による戒厳の布告を建言した。水野も朝鮮総督府政務総監時代の1919年9月2日(地震の4年前)、独立党党員に爆弾を投げられ重傷を負ったことがある[68]。これを受け、9月2日には、東京府下5郡に緊急勅令により戒厳令の一部規定適用を布告し、3日には東京府と神奈川県全域にまで広げた[57]。この戒厳令規定一部適用の勅令が水野内務大臣の最後の公務となり、内務大臣の役職は後藤新平に引き継がれた[69]。一方で戒厳令のほか、経済的には非常徴発令・暴利取締法・臨時物資供給令・モラトリアムが施行された[70]。陸軍は戒厳令のもと騎兵を各地に派遣し、軍隊の到着を人々に知らせたがこのことは人々に安心感を与えつつ、流言が事実であるとの印象を与え不安を植えつけたとも考えられる[57]。この戒厳令により、警官の態度が高圧化したとの評価もある[57]
自警団による暴行

軍・警察の主導で関東地方に4,000もの自警団が組織され、集団暴行事件が発生した[58][71]。横浜地区では刑務所から囚人が解放されていたため、自警団の活動に拍車がかかった[72]。これら自警団の行動により、朝鮮人だけでなく、中国人、日本人なども含めた死者が出た。朝鮮人かどうかを判別するためにシボレスが用いられ、国歌を歌わせたり[73]朝鮮語では語頭に濁音がこないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害したとしている[注釈 8]。「白い服装だから朝鮮人だろう」という理由で、日本海軍の将校ですら疑われた[63]。また福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本内地人が殺害されたケースもある。聾唖者(聴覚障害者)も、東京聾唖学校の生徒の約半数が生死がわからない状態になり、卒業生の一人は殺された[74]。9月4日、埼玉県の本庄町(現本庄市)で、住民によって朝鮮人が殺害される事件が起きた(本庄事件)。同日、熊谷町(現熊谷市)、5日には妻沼町でも同様の事件が発生している。9月5日から6日にかけて、群馬県藤岡町(現藤岡市)では藤岡警察署に保護された砂利会社雇用の在日朝鮮人ら17人が、署内に乱入した自警団や群衆のリンチにより殺害されたことが、当時の死亡通知書・検視調書資料により確認できる(藤岡事件)[75]

横浜市の鶴見警察署長・大川常吉も保護下にある朝鮮人ら300人の奪取を防ぐために、1千人の群衆に対峙して「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。この大川を殺してから連れて行け。そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返した。さらに「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升びんの水を飲み干したという[注釈 9]。大川は朝鮮人らが働いていた工事の関係者と付き合いがあったとみられている[59]。また軍も多くの朝鮮人を保護した。当時横須賀鎮守府長官野間口兼雄の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」[45]などのデマに惑わされず、海軍陸戦隊の実弾使用申請や、在郷軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった[73]。横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している[76]。現在の千葉県船橋市丸山にあった丸山集落では、それ以前から一緒に住んでいた朝鮮人を自警団から守るために一致団結した[59]。また朝鮮人を雇っていた埼玉県の町工場の経営者は、朝鮮人を押し入れに隠し、自警団から守った[59]

警官手帳を持った巡査が憲兵に逮捕され、偶然居合わせた幼なじみの海軍士官に助けられたという逸話もある[77]。当時早稲田大学在学中だったのちの大阪市長・中馬馨は、叔母の家に見舞いに行く途中で群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」するほどの暴行を受けたという[78]。歴史学者の山田昭次は、残虐な暴行があったとしている[59]

10月以降、暴走した自警団は警察によって取り締まられ、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし「愛国心」によるものとして情状酌量され、そのほとんどが執行猶予となり、残りのものも刑が軽かった[58][79]。福田村事件では実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚で恩赦になった[79]。自警団の解散が命じられるようになるのは11月のことである。
被害者数警視廳保護鮮人収容所 (目K競馬場), 九月十三日牛込神樂坂警察署ニテ領置セル自警團員ノ戎兇器


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