関東大震災
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その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升びんの水を飲み干したという[注釈 9]。大川は朝鮮人らが働いていた工事の関係者と付き合いがあったとみられている[59]。また軍も多くの朝鮮人を保護した。当時横須賀鎮守府長官野間口兼雄の副官だった草鹿龍之介大尉(後の第一航空艦隊参謀長)は「朝鮮人が漁船で大挙押し寄せ、赤旗を振り、井戸に毒薬を入れる」[45]などのデマに惑わされず、海軍陸戦隊の実弾使用申請や、在郷軍人の武器放出要求に対し断固として許可を出さなかった[73]。横須賀鎮守府は戒厳司令部の命により朝鮮人避難所となり、身の危険を感じた朝鮮人が続々と避難している[76]。現在の千葉県船橋市丸山にあった丸山集落では、それ以前から一緒に住んでいた朝鮮人を自警団から守るために一致団結した[59]。また朝鮮人を雇っていた埼玉県の町工場の経営者は、朝鮮人を押し入れに隠し、自警団から守った[59]

警官手帳を持った巡査が憲兵に逮捕され、偶然居合わせた幼なじみの海軍士官に助けられたという逸話もある[77]。当時早稲田大学在学中だったのちの大阪市長・中馬馨は、叔母の家に見舞いに行く途中で群集に取り囲まれ、下富坂警察署に連行され「死を覚悟」するほどの暴行を受けたという[78]。歴史学者の山田昭次は、残虐な暴行があったとしている[59]

10月以降、暴走した自警団は警察によって取り締まられ、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし「愛国心」によるものとして情状酌量され、そのほとんどが執行猶予となり、残りのものも刑が軽かった[58][79]。福田村事件では実刑となった者も皇太子(のちの昭和天皇。当時は摂政)結婚で恩赦になった[79]。自警団の解散が命じられるようになるのは11月のことである。
被害者数警視廳保護鮮人収容所 (目K競馬場), 九月十三日牛込神樂坂警察署ニテ領置セル自警團員ノ戎兇器

殺害された人数は複数の記録、報告書などから研究者の間で分かれており明確になっていない[80]中央防災会議(事務局は内閣府)は虐殺による死者は震災による犠牲者の1から数パーセントに当たるとする報告書を作成している[57]吉野作造の調査では2,613人[注釈 10]上海大韓民国臨時政府の機関紙『独立新聞』社長の金承学の調査では6,661人という数字があり[注釈 11]、幅が見られる[81]。犠牲者を多く見積もるものとしては、大韓民国外務部長官[注釈 12]による1959年の外交文章内に「数十万の韓国人が大量虐殺された」との記述がある[82]内務省警保局調査(「大正12年9月1日以後ニ於ケル警戒措置一斑」)では、朝鮮人死亡231人・重軽傷43名、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59名、重軽傷43名だった[81]。なお立件されたケースの被害者数を合算すると233人となる[83]

2013年6月には、韓国の李承晩政権時代に作成された被害者289人の名簿が発見され、翌年には目撃者や遺族の調査が開始された[84]。2015年1月18日に第1次検証結果では名簿からは289人のうち18人が虐殺されたもの、名簿にない3名が新たに被害者として確認されたと韓国政府は主張した[85]。最終的に2015年12月に検証結果が報告され、韓国政府発表では名簿からは289人のうち28人が虐殺されたものと主張を確定した[86]
岸田内閣・松野官房長官の発言

岸田文雄内閣官房長官松野博一は、震災発生100年を2日後に控えた2023年8月30日、首相官邸での記者会見において、共同通信の記者から、関東大震災の記録について「当時、被災地ではデマが広がり、多くの朝鮮人が、軍、警察、自警団によって虐殺されたと伝えられています。政府として朝鮮人虐殺をどう受け止め、何を反省点としているのか」などの質問を受けた[87][88][89]

これに対して、松野は「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらないところであります」などと述べた[87][88][89]

なお、安倍晋三内閣においても、2019年3月8日、参議院議員有田芳生に対する質問主意書に対する答弁書において、「御指摘の「関東大震災時に軍隊が朝鮮人等を虐殺したこと」については、調査した限りでは、政府内にその事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」と答弁している。また、2017年にも、衆議院議員初鹿明博に対する質問主意書に対する答弁書において、お尋ねの「関東大震災に際し、流言蜚語による殺傷事件が発生し、朝鮮人が虐殺されたという事実」、「中国人、朝鮮人と間違えられた日本人も犠牲になっているという認識」、「関東大震災に当たって発生した殺傷事件による犠牲者の総数」、「政府として把握している犠牲者の数」及び「関東大震災時のような流言蜚語を原因とする殺傷事件」については、調査した限りでは、政府内にそれらの事実関係を把握することのできる記録が見当たらないことから、お尋ねについてお答えすることは困難である。としている。
紙幣の焼失

日本銀行本店は火災の被害を受けたが、銀行券は8.5%が損傷したのみに留まった[90]。ただ、当時の唯一の紙幣印刷工場であった東京市大手町の印刷局(当時は内閣の外局)は、証券印刷部や工場、約730台の機械設備、銀行券原版、製造中や製造完了の銀行券をほぼ焼失し、東京市王子の印刷局抄紙部も建物が全面倒壊した。9月下旬の大阪時事新報によれば、印刷局の焼け跡では奇跡的に1円、5円、10円、20円、100円の原版が無傷で発見され、日本銀行の金庫に保管された。

当初は緊急紙幣の発行は行われなかったが、10月中旬に一部の銀行で預金の払出しが相次いだため、日本銀行は11月6日に大蔵大臣に対し、未発行の高額紙幣「甲200円券」の発行申請を行い、大阪の証券印刷会社である昌栄堂印刷所が下請工場として製造を開始した。しかし年末にはそれほど需要がないことが判明し、甲200円券は発行が中止となった(1926年にすべて焼却処分された)。

1924年には朝鮮総督府の印刷局が東京の印刷局へ、アメリカ製の凹版速刷機やパンタグラフを搬送し、その後に新たに発注されたアメリカ製の凸版平版印刷機も次第に到着して、印刷局の業務は1926年3月には復旧した。
復興「相州小田原の震害地へ急行の工兵隊」と「小田原十字町の惨状」(関東大震災画報 第一輯〔しゅう〕大阪毎日新聞)。

山本権兵衛首相を総裁とした「帝都復興審議会」の創設により、大きな復興計画が動いた。江戸時代以来の東京市街地の大改造を行い、道路拡張や区画整理などインフラ整備も大きく進んだ。公共交通機関が破壊され自動車の交通機関としての価値が認識されたことから、1923年(大正12年)に1万2,765台だった自動車保有台数が震災後激増、1924年(大正13年)には2万4,333台[91]、1926年(大正15年)には4万0,070台となっていた[92]。1929年の世界恐慌など逆風が続くなか、その後も漸増した。

その一方で、第一次世界大戦終結後の不況下にあった日本経済にとっては震災手形問題や復興資材の輸入超過問題などが生じた結果、経済の閉塞感がいっそう深刻化し、のちの昭和恐慌に至る長い景気低迷期に入った。震災直後の7日には緊急勅令によるモラトリアムが出され、29日に至って震災手形割引損失補償令が出されて震災手形による損失を政府が補償する体制がとられたが、その過程で戦後恐慌に伴う不良債権までもが同様に補償され、これらの処理がこじれ、1927年には昭和金融恐慌を起こすことになる。


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