関東大震災
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火災による被害は全犠牲者中、約9割に上る(当該の統計情報によれば、全体の犠牲者10万5,385人のうち、火災が9万1,781人を占めた)ともいわれている[37]。火災旋風により多くの被災者が吹き上げられた。被服廠跡で被災した人の中には15kmほど離れた市川まで吹き飛ばされた人もあった[38]。この火災旋風の高熱で熔けて曲がり塊となった鉄骨は、東京都復興記念館に収蔵・展示されている。

本所被服廠跡地の避難民を襲う火災旋風を描いた図

大日本麦酒吾妻橋工場(現・リバーピア吾妻橋)内鉄柱

丸善ビル

建物の倒壊.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースには内藤湖南著作の原文があります。焼失せる蒙満文蔵経半壊した凌雲閣

東京市内の建造物の被害としては、凌雲閣(浅草十二階)が大破[39][40][41]、建設中だった丸の内内外ビルディングが崩壊し作業員約300名が圧死した。さらに大蔵省文部省内務省外務省警視庁など官公庁の建物や、東京帝大帝国劇場日本橋三越本店などの教育・文化・商業施設の多くを焼失した。神田神保町帝大図書館、松廼舎文庫、大倉集古館も類焼し、多くの貴重な書籍群や文化財が失われた。

震源に近かった横浜市では、官公庁やグランドホテル[注釈 4]、オリエンタルパレスホテル[注釈 5]などが石造・煉瓦作りの洋館であったことから一瞬にして倒壊し、内部にいた者は逃げる間もなく圧死した。さらに火災によって、外国領事館のすべてを焼失、工場・会社事務所も90%近くを焼失した。千葉県房総地域の被害も激しく、特に北条町では古川銀行・房州銀行(ともに現在の千葉銀行の前身の一つ)が辛うじて残った以外は郡役所・停車場などを含むすべての建物が全壊。測候所と旅館が亀裂の中に陥没するなど、壊滅的被害を出した。

なお地震後も気象観測を続けた中央気象台(現在の気象庁、位置は現在とほぼ同じで若干濠寄り)では1日21時ごろから異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している[42]。このころ気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失し多くの地震記録を失った[43]。気象記録としては無効とされ抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。
首都機能の麻痺

震災当時、通信・報道手段としては電報と新聞が主なものだった(ラジオ放送は実用化前で[注釈 6]電話も一般家庭に普及していなかった)が、当時東京にあった16の新聞社は、地震発生により活字ケースが倒れて活字が散乱したことで印刷機能を失い、さらに大火によって13社を焼失、報道機能は麻痺した。東京日日新聞(現在の毎日新聞の前身)・報知新聞都新聞は焼け残り、もっとも早く復旧した東京日日は9月5日付夕刊を発行した。

郵便制度も同様だった。普通切手はがき、そして印紙も焼け、一部に至っては原版までも失われた。全国各地の郵便局の在庫が逼迫することが予想されたため、目打なしの震災切手と呼ばれる臨時切手が民間の印刷会社(精版印刷・大阪、秀英舎・東京)に製造を委託され、9種類が発行された。その他にはがき2種類、印紙なども同様にして製造された。

11月に発行を予定していた、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)と良子女王(のちの香淳皇后)との結婚式記念切手「東宮御婚儀」4種類のほとんどが逓信省の倉庫で原版もろとも焼け、切手や記念絵葉書は発行中止(不発行)となった[44]。その後、当時日本の委任統治領だった南洋庁パラオ)へ事前に送っていた分が回収され、皇室関係者と逓信省関係者へ贈呈された。結婚式自体は1924年(大正13年)の1月に延期して挙行された。

関東以外の地域では、通信・交通手段の途絶も加わって伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり、新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」「津波、赤城山麓にまで達する」「政府首脳の全滅」「伊豆諸島の大噴火による消滅」「三浦半島の陥没」などといったやデマの情報が取り上げられた[45]真鶴駅?根府川駅間の寒ノ目山トンネルで埋没した上り第116列車の牽引機関車。

震央から約120kmの範囲内にあった国有鉄道の149トンネル(建設中を含む)のうち、93トンネルで補修が必要となった。激しい被害を受けたのは、熱海線(現在の東海道線)小田原?真鶴間で、11本あるトンネルのうち7本に大規模な損傷がでる被害を生じた。地滑りや斜面崩落により坑口付近の崩落や埋没を生じたが、坑口から離れた場所でも亀裂や横断面の変形を生じている。深刻な被害を生じたのは、根ノ上山トンネル(熱海線:早川?根府川間)、与瀬トンネル(中央線:相模湖?藤野間)、南無谷トンネル(現在の内房線:岩井?富浦間)[46]
土砂災害

丹沢山地では多くの表層崩壊を生じた[47]。特筆する災害の例として、神奈川県小田原市白糸川では地震発生当日に主震動によって斜面の崩落や崩壊が生じ山津波(岩屑流)となり、小田原市根府川沿い集落の123戸中64戸を埋没させ300人を超える犠牲者があった[48]。この山津波は約6kmを5分程度で流下した。なお、この山津波と根府川駅列車転落事故を生じた地滑りとは別のものである[48]

更に、9月12日から9月15日の大雨によって 166箇所の土砂災害、12箇所の河道閉塞が発生し、土砂災害による死者は1,053人以上、建物約500戸に被害が及んだ[49]

現在の秦野市では地震動によって市木沢(いちきさわ)最上部付近の丘陵が200mにわたって崩落し、下校途中の女児2名が行方不明となった。崩落土の河道閉塞で、新たな湖が生まれた[50]。この湖は「震生湖」と命名され、令和の現在では市民の憩いの場となっている。
地震の混乱で発生した事件
司法・法制の動き「#治安維持緊急勅令の発布」および「#戒厳令発布」を参照各地裁判所及び刑務所の処置を報告する法曹会雑誌(10月)。

司法省および法曹会の下で、受刑者を一時解放した刑務所もあった。横浜刑務所では受刑者を名古屋へ移送することが9月7日になって決まり、同日に貼り紙による告知が行われたものの解放された受刑者821名のうち、翌日早朝の期限までに戻ってきた受刑者は565名のみだった。

なお、この9月7日は治安維持法の前身となる緊急勅令が出された日でもあった。1923年10月22日付東京時事新報[51]。震災後、多くの新聞社が流言の拡散に加担した(内閣府、災害教訓に関する専門調査会、平成20年3月報告書『1923年関東大震災、第2編』https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/index.html )




9月3日 亀戸事件(当事者は警察署と自警団)、東京地方裁判所管


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