関東大震災
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その説が学界にも定着したため、理科年表では2006年(平成18年)版から修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千あまり」としている[33]

地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴った火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は、太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県足柄下郡片浦村では鉄道事故で100人以上の死者、また土石流で数百名の犠牲者を出した。
関東大震災により死去した著名人

寛子女王閑院宮載仁親王第4女子)- 小田原市閑院宮御別邸へ避暑のところ、別邸が倒壊。

師正王東久邇宮稔彦王第2王男子)- 避暑先の藤沢市にある別荘が倒壊。

佐紀子女王山階宮武彦王妃)- 鎌倉市山階宮別邸へ静養のところ、別邸が倒壊。

近衛秀俊近衛秀麿子爵長男) - 父の訪欧のため鎌倉の公爵邸滞在のところ、津波に巻き込まれる。

松岡康毅枢密顧問官日本大学総長)- 葉山の別邸が倒壊。

園田孝吉(実業家、男爵)- 二宮にある別荘が倒壊。

磯部四郎(政治家、法学者、弁護士)- 避難先の被服廠跡で焼死。

厨川白村(英文学者、評論家)- 鎌倉で津波に巻き込まれ、翌2日に死去。

辻村伊助(園芸家、登山家)- 小田原の自宅裏のがけ崩れに巻き込まれ、妻子とともに犠牲となる。

富田木歩(俳人)- 向島の自宅で被災し、避難の途中で退路を断たれ焼死。

五代目麗々亭柳橋(落語家)- 避難先の被服廠跡で焼死。

ウィリアム・ヘーグイギリス外交官、草創期のサッカー振興に関与)- 勤務先の横浜の領事館が倒壊。

ジェニー・カイパーフェリス和英女学校校長) - 卒業生の相談に乗っていたところ、倒壊した校舎の下敷きに。生徒や教職員の安否を気掛かりにしながら、讃美歌を歌いつつ焼死。

村岡斎(日本の印刷業者、村岡花子の夫・村岡?三の実弟)- 横浜工場の社屋が倒壊し、社員約70名とともに犠牲となる。

當り矢信太郎(元力士) - 死没地は不明。

梅垣直治郎(元力士)- 死没地は不明、妻子とともに死亡したという。

三遊亭花遊(落語家、音曲師)- 死没地は不明。

安田善雄(実業家) - 本所横網の安田家本邸で妻子ともに火災に巻き込まれ、陸軍軍医学校で死亡が確認された。

五明楼国輔(落語家)- 諸説あり。

関東大震災犠牲者の慰霊施設

東京都慰霊堂(旧震災記念堂)- 身元不明の遺骨を納め死者の霊を祀る。1948年(昭和23年)からは東京大空襲の身元不明の遺骨を納め、その死者の霊も合祀している。

大正拾二年九月帝都震災殃死(おうし)者之霊供養碑 - 東京大田区の池上本門寺境内。
根府川駅から海中に転落した列車のうち、海岸に残った客車。
鉄道事故詳細は「根府川駅列車転落事故」を参照

神奈川県足柄下郡片浦村(現・小田原市の一部)の根府川駅では、そのときちょうど通りかかっていた列車が駅舎・ホームもろとも土石流により海中に転落し、100人以上の死者を出した。さらにその後に発生した別の土石流で村の大半が埋没、数百名の犠牲者を出した。

この震災により、小田原電気鉄道(現・箱根登山電車)も路盤やトンネルの崩壊、車両の脱線・埋没など甚大な被害を受け、復旧に1年を要している。
火災震災直後の被服廠跡地の避難民の遺体。震災直後の火災により東京で発生した巨大な積乱雲

地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生した。大学や研究所で、化学薬品棚の倒壊による発火も見られた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}一部の火災については工藤美代子が「火元には、空き家や小学校、女学校、越中島の糧秣廠(兵員用の食料(糧)および軍馬用のまぐさ(秣)を保管する倉庫で、火薬類は保管していない)など発火原因が不明なところがあり、2日の午後に新しい火災が発生するなど不審な点も多い」と主張している[34][信頼性要検証]。加えて能登半島付近に位置していた台風により、関東地方全域で風が吹いていたことが当時の天気図で確認できる。火災は地震発生時の強風に煽られ、本所区本所横網町(現在の墨田区横網)の陸軍本所被服廠跡地(現在の横網町公園。ほか、現在の墨田区立両国中学校日本大学第一中学校・高等学校などもこの場所に含まれる[注釈 3])で起こった火災旋風を引き起こしながら[35]広まり、旧東京市の約43%の34.7km2と横浜市では10km2が焼失し[36]鎮火したのは40時間以上経過した2日後の9月3日10時ごろとみられる。火災による被害は全犠牲者中、約9割に上る(当該の統計情報によれば、全体の犠牲者10万5,385人のうち、火災が9万1,781人を占めた)ともいわれている[37]。火災旋風により多くの被災者が吹き上げられた。被服廠跡で被災した人の中には15kmほど離れた市川まで吹き飛ばされた人もあった[38]。この火災旋風の高熱で熔けて曲がり塊となった鉄骨は、東京都復興記念館に収蔵・展示されている。

本所被服廠跡地の避難民を襲う火災旋風を描いた図

大日本麦酒吾妻橋工場(現・リバーピア吾妻橋)内鉄柱

丸善ビル

建物の倒壊.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースには内藤湖南著作の原文があります。焼失せる蒙満文蔵経半壊した凌雲閣

東京市内の建造物の被害としては、凌雲閣(浅草十二階)が大破[39][40][41]、建設中だった丸の内内外ビルディングが崩壊し作業員約300名が圧死した。さらに大蔵省文部省内務省外務省警視庁など官公庁の建物や、東京帝大帝国劇場日本橋三越本店などの教育・文化・商業施設の多くを焼失した。


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