関東大震災
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同じ小舟に乗り合わせたように人々は皆じっと静かにしているようだった。 ? ポール・クローデル、『孤独な帝国 日本の1920年代―ポール・クローデル外交書簡1921‐27』

と当時の日本人の様子を書いている[20]
避難日暮里駅(移転前)での8620形蒸気機関車牽引の避難列車。靖国神社に設置された仮設住宅

東京市内の約6割の家屋が罹災したため、多くの住民は、近隣の避難所へ移動した。東京市による震災直後の避難地調査[21]によれば、9月5日に避難民1万2千人以上を数える集団避難地は160か所を記録。もっとも多い場所は社寺の59か所、次いで学校の42か所だった。公的な避難場所の造営として内務省震災救護事務局が陸軍のテントを借り受け、明治神宮外苑宮城前広場などに設営された。9月4日からは、内務省震災救護事務局と東京府が仮設住宅(バラック)の建設を開始。官民の枠を超えて関西の府県や財閥、宗教団体などが次々と建設を進めたことから、明治神宮日比谷公園などには瞬く間に数千人を収容する規模のバラックが出現したほか、各小学校の焼け跡や校庭にも小規模バラックが建設された。震災から約2か月後の11月15日の被災地調査[22]では、市・区の管理するバラックが101か所、収容世帯数2万1,367世帯、収容者8万6,581人に達している。一方、狭隘な場所に避難民が密集したため治安が悪化した。一部ではスラム化の様相を見せた[23]ため、翌年には内務省社会局・警視庁・東京府・東京市が協議し、バラック撤去の計画を開始している。撤去にあたっては、東京市が月島三ノ輪深川区猿江に、東京府が和田堀・尾久王子に小規模住宅群を造成した[24]。また義捐金を基に設立された財団法人同潤会による住宅建設も進んだ。

東京の被害が大きかったことから内務省は地方へ受け入れを指示し、最大で100万人が東京外へ疎開した[25]。11月15日時点でも78万人が東京と神奈川以外に避難していた[25]
救護活動

軍で組織的な震災救護を行った[26]。「軍隊が無かったら安寧秩序が保てなかったろう」という評価は、町にも、マスコミにも溢れた[27]。警察は消防や治安維持の失敗により威信を失ったが、軍は治安維持のほか技術力・動員力・分け隔てなく被災者を救護する公平性を示して、民主主義意識が芽生え始めた社会においても頼れる印象を与えた[28]。各地の在郷軍人会から8400人以上が集結し救護活動を行った[26]
被害

190万人が被災、10万5,000人あまりが死亡あるいは行方不明になったと推定されている(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めている)。建物被害においては全壊が約10万9,000棟、全焼が約21万2,000棟である。東京の火災被害が中心に報じられているが、被害の中心は震源断層のある神奈川県内で、振動による建物の倒壊のほか、液状化による地盤沈下崖崩れ、沿岸部では津波による被害が発生した。東京朝日新聞読売新聞国民新聞など新聞各社の社屋も焼失した。唯一残った東京日々新聞の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」「日本橋京橋下谷浅草本所深川神田殆んど全滅死傷十数万」「電信電話電車瓦斯山手線全部途絶」といった凄惨なものがみられた。同3日付では「横浜市は全滅 死傷数万」「避難民餓死に迫る」、4日付では「江東方面死体累々」「火ぜめの深川 生存者は餓死」、「横浜灰となる 東京」 などという見出しが続いた。中でも殺到した数万の避難者を火災旋風が襲った本所被服廠跡地の状況は凄惨をきわめ、9日付大阪朝日新聞で「一万五千坪に三万五千の死体」と報じられた[29]。  京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た日本橋および神田方面の惨状

1923年 関東地震の状況別被害集計(諸井・武村 (2004) より引用[30])住宅被害棟数死者行方不明者数
地域全潰非焼失半潰非焼失焼失流失埋没合計住宅全潰火災流出埋没工場等合計
神奈川県6万35774万66215万40354万30473万541249712万557757952万520183610063万2838
東京都2万44691万18422万95251万723117万6505220万558035466万652163147万0387
千葉県1万37671万344460936030431711万99761255590321346
埼玉県47594759408640860088453150028343
山梨県577577222522250028022000222
静岡県2383230963706214573192591500171123444
茨城県1411413423420048350005
長野県13137575008800000
栃木県331100400000
群馬県24242121004500000
合計10万97137万973310万27737万927221万2353130137万26591万10869万17811013150510万5385


非焼失の全潰・半潰は焼失および流出、埋没の被害を受けていない棟数。

津波:静岡県熱海市 6m。千葉県相浜(現在の館山市) 9.3m。洲崎 8m、神奈川県三浦 6m。鎌倉市由比ケ浜で300人あまりが行方不明。関東大震災では建物の倒壊と火災による被害が甚大で、津波と地震動の被害を分離することが困難なため、津波に関する報告は断片的で全体像が明確になっていなかった。津波の高さは鎌倉由比ヶ浜では局地的に9mに達し、逗子・鎌倉・藤沢の沿岸では5mから7mの津波が到達した。江ノ島電鉄の由比ヶ浜の停留所(現在の長谷4号踏切付近)に津波が到達し、中村菊三の手記『大正鎌倉餘話』で、中村は津波の被害者とみられる女性の遺体が由比ヶ浜滞留所にあったと書いている[31]

この震災の記録映像として、記録映画カメラマン白井茂による『関東大震大火実況』が残されており、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している。その一部は同センターの展示室の常設展で見ることができる。また横浜シネマ商会(現:ヨコシネ ディー アイ エー)の手による『横浜大震火災惨状』が、同社および横浜市中央図書館に所蔵されている。これ以外にも数本記録映画が存在しているが、オリジナルといえる作品は少ない[32]
人的被害震災直後、尋ね人のビラが貼られた東京駅警備巡査派出所(1968年解体、1972年博物館明治村に移築)

2004年(平成16年)ごろまでは、死者・行方不明者は約14万人と推定されていた。この数字は、震災から2年後にまとめられた「震災予防調査会報告」に基づいた数値である。しかし近年になると、武村雅之らの調べによって、14万人の数字には重複して数えられているデータがかなり多い可能性が指摘された。その説が学界にも定着したため、理科年表では2006年(平成18年)版から修正され、数字を丸めて「死者・行方不明 10万5千あまり」としている[33]

地震の揺れによる建物倒壊などの圧死があるものの、強風を伴った火災による死傷者が多くを占めた。津波の発生による被害は、太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流による家屋の流失・埋没の被害は神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に神奈川県足柄下郡片浦村では鉄道事故で100人以上の死者、また土石流で数百名の犠牲者を出した。
関東大震災により死去した著名人

寛子女王閑院宮載仁親王第4女子)- 小田原市閑院宮御別邸へ避暑のところ、別邸が倒壊。

師正王東久邇宮稔彦王第2王男子)- 避暑先の藤沢市にある別荘が倒壊。

佐紀子女王山階宮武彦王妃)- 鎌倉市山階宮別邸へ静養のところ、別邸が倒壊。

近衛秀俊近衛秀麿子爵長男) - 父の訪欧のため鎌倉の公爵邸滞在のところ、津波に巻き込まれる。

松岡康毅枢密顧問官日本大学総長)- 葉山の別邸が倒壊。


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