静岡県県令となってからは治山治水事業に尽力し、天竜川から中遠地方一帯に農業用水を引く遠州社山(現在の磐田市)の隧道工事、富士郡の塩害を防ぐ沼川石水門の建築、県庁舎新築なども進めている[10][11]。また、図書蒐集と活用をめざし、久能山に私費による図書館「久能文庫」の創設も企画した[10]。 明治19年(1886年)、地方官官制公布により、初代静岡県知事に任命される[10]。為政者として図書活用の有用性を認識していた隆吉は、早くから「久能文庫建設ノ広告」において私費図書館である久能文庫の構想を打ち出していた[10]。 明治20年(1887年)、静岡教会牧師の平岩愃保と共に、静岡県内初の女子教育機関である私立「静岡女学校」(現静岡英和女学院中学校・高等学校)を開校する[3]。初代校長はミス・M・J・カニンハム。 明治22年(1889年)4月11日、名古屋で行われた第三師団の招魂祭への列席のため、自身が敷設に尽力した東海道線開通試運転の工事用貨物列車に併結された客車に乗車中、他列車との正面衝突事故に遭い、客車の前に連結されていた貨車から突き刺さった鋼材が足を直撃し、左足足首打撲骨折の重傷を負う[1]。医師の所見では右足の切断を要する程の重症であるにもかかわらず、関口は頑としてこれを拒んだため、この傷から感染した破傷風が致命傷となり、同年5月17日に亡くなる[8]。 隆吉辞世の歌[1]世の中は浦島が玉の箱なれや あけてくやしき夏の短夜
静岡県知事時代
栄典
位階
1874年(明治7年)正六位[8][12]
1881年(明治14年)従五位[12]
1886年(明治19年)11月16日 - 正四位[13][14]
1889年(明治22年)4月17日 - 従三位[12][8]
勲章
1877年(明治10年)勲四等[8][12]
1882年(明治15年)
2月10日 - 勲四等旭日小綬章[15]
10月28日 - 勲三等旭日中綬章[12][16][8]
1887年(明治20年)7月21日 - 銀製黄綬褒章[17]
親族
妻 睦(のちに改名し綾 茶道宗?流正伝庵六世の山田宗弥の娘)[2]
長男 関口壮吉
二男 新村出(言語学者・文献学者。『広辞苑』編者として知られる[3]。)
三男 加藤周蔵[18]
四男 関口鯉吉(天文学者・気象学者[1])
長女 関口操
次女 関口万寿
三女 関口八千
四女 関口比那
五女 関口伸子
六女 関口機子
七女 関口すゑ
操の聟養子 関口隆正(静岡女学校第3代校主・漢学者)
逸話
静岡女学校(後の静岡英和女学院)の創立にあたり、彼は明治20年(1887年)に東洋英和女学院の視察を行っている。その時に次女の万寿は東洋英和女学院の生徒であった。娘の学校名を覚えていなかった彼は、娘が居ることを知らずに訪れた[19]。
関口の功績を称えて、2020年1月17日にJR菊川駅前に銅像が立てられた。製作者は彫刻家の堤直美氏[20]。
脚注[脚注の使い方]^ a b c d e f g h i 静岡県歴史人物事典 1991, p. 259.
^ a b c d e f g h i j k l m n o 書簡集 2009, p. 127.
^ a b c d e f g h i j k l m n 「静岡新聞 びぶれ」2014年1月9日、静岡新聞社、p.3