間接統治
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メキシコにおいては自由派と保守派が手を結び、アグスティン・デ・イトゥルビデによって1821年メキシコ帝国が建国された。ポルトガル領のブラジルにおいては独立戦争こそ起きなかったものの、ナポレオン戦争のためブラジルに避難していたポルトガル王室が1821年に本国に帰還する際、ブラジルに残ったドン・ペドロが皇帝に推戴されて1822年ブラジル帝国が成立した。こうして1820年代前半までには南アメリカ大陸および中央アメリカのほとんどの植民地が独立を果たし、北アメリカ大陸北部のカナダとカリブ海にうかぶ島々を除き、新大陸からは植民地がほぼ失われた。
アジア・アフリカの植民地化の開始インド帝国の地方行政区画(1909年)。ピンク色がイギリスの直接統治区域であり、黄色は従属する藩王国である

こうした中、ヨーロッパ諸国は新大陸に代わる植民地としてアジア・アフリカへの侵略を強めていった。すでにインドにおいてはヨーロッパ各国が商館を各地に建設していたが、1757年に起こったプラッシーの戦いが一つの転換点となった。この戦いで勝利したイギリス東インド会社ベンガル地方の徴税権を獲得し、事実上この地域を支配下においた。そしてここを足掛かりに徐々に侵略を進め、19世紀半ばにはインド全土がイギリスの支配下に入った。インドはもちろん現地住民が多数派を占める植民地であり、本国からの植民も行われなかった。こうして入植型植民地に代わり、現地住民を支配して収奪し利益を上げる型の植民地支配が主流となっていった。一方でこの時期においてもオーストラリアニュージーランド、カナダなどの入植型の植民地は引き続き進められており、これら入植型植民地においてはある程度の人口や体制が固まったのちは自治領としてある程度の自治権が与えられた。

ナポレオン戦争によってオランダ領ケープ植民地やフランス領モーリシャスなどいくつかの植民地がイギリスに割譲された。この時期にはイギリスのみならず、いくつかの国家がアジアへの侵略を開始した。なかでもオランダはジャワ島の支配を17世紀以降徐々に進めていき、広大なオランダ領東インドを建設していった。また、アフリカにおいてはフランスが1830年アルジェリアを征服し、再び植民地帝国を築くようになっていった。
世界分割1880年と1913年のアフリカの比較。1880年には植民地はほぼ海岸部に限られていたが、1913年にはほぼ大陸全土が分割されている

19世紀後半に入ると植民地化はさらに加速し、それまで独立を保っていた地域も多くが列強諸国の植民地となっていった。アジアにおいては1862年にフランスが阮朝からコーチシナを奪ったのを皮切りに勢力を広げ、1887年にはフランス領インドシナが成立した。ビルマも三度に及ぶ英緬戦争によって1886年コンバウン朝がイギリスに滅ぼされ、東南アジアで独立を保つ国家はタイのみとなった。

こうしてアジアの各地に列強が進出していく中、アフリカへの進出はかなり遅れた。フランスがアルジェリアとセネガルに、イギリスがケープ植民地に拠点を置いて侵略を進めていき、沿岸部には薄く欧州諸国の植民地が連なるようになっていったものの、1880年ごろまではアフリカ大陸内陸部の大半はいまだ植民地化されてはいなかった。この状況は、ベルギーレオポルド2世コンゴ川探検によって大きく変化した。コンゴ川河口域はポルトガルが支配を及ぼしていた地域だったが、内陸までは進出していなかった。それに目を付けたレオポルド2世はコンゴ川流域の支配権を要求し、各国と対立するようになった。結局、この問題は1884年ベルリン会議が開かれ、沿岸を支配したものはその後背地の支配権を主張できること、実際に後背地を制圧した場合は他国に通告することで植民地化が認められることなどを骨子とした植民地化のルールが策定されることで決着した[4]。そして、この会議によって列強は一斉にアフリカ内陸部の植民地化を開始し、16年後の1900年ごろにはエチオピアリベリアを除くアフリカのほとんどすべてが欧州列強によって植民地化されてしまっていた。同時期、オセアニアにおいても太平洋に浮かぶ島々に列強が次々と進出し、分割が完了した。アジアにおいても残っていた独立国の征服が進み、また名目的には独立していても国内の多くの利権を列強に握られ半植民地の状態に陥った国も多くみられた。こうして1910年ごろには世界分割はほぼ完了し、植民地主義は最盛期を迎えた。
第一次世界大戦後の委任統治

第一次世界大戦後も、植民地主義に大きな変化はなかった。民族自決の原則は欧州に限られ、アジア・アフリカの中央同盟国側の旧領土は委任統治領として戦勝国に分け与えられた。いちおう委任統治という名目はついたものの、これらの委任統治領の統治は植民地と何ら変わるところはなく、事実上植民地の再分配が行われたにすぎなかった。ただし、委任統治領は社会の発展段階に応じてA式、B式、C式の3段階に分けられ、もっとも発展しているA式に分類された旧オスマン帝国領の諸地域に関しては住民自治が認められ、イギリス委任統治領メソポタミアフランス委任統治領シリアイギリス委任統治領パレスチナの3つの地域に関しては早期独立を目指すこととされた。これらの地域においては、メソポタミアがイラクとして1932年に独立したのを皮切りに、シリアはレバノン1943年)とシリア1946年)、パレスチナ東部はトランスヨルダンとして1946年に独立を達成した。ただしパレスチナ西部についてはユダヤ人アラブ人の激しい対立が起こり、委任統治の終了は1948年にまでずれ込み、また統治終了はそのままイスラエル独立宣言とそれによる第一次中東戦争の勃発という形で爆発することとなった。また、B式に分類された西アフリカ・中央アフリカの旧ドイツ植民地やC式に分類された太平洋諸島・南西アフリカに関してはほとんど従来の植民地と同じ扱いとなったが、委任統治の受任国は連盟理事会に該当地域の統治状況の報告を義務付けられ、同じく連盟に設置された委任統治委員会に勧告を受けるなど、ある程度の歯止めを意識した施策は行われた[5]
植民地主義の崩壊

こうした植民地主義の体制が綻びを見せるのは第二次世界大戦後のことである。大戦に勝利した連合国側の列強も戦争によって非常に疲弊した状態となっており、植民地を押さえつける力は失われつつあった。また連合国側によって設置された国際連合は旧連盟の委任統治政策を引き継ぎ、旧委任統治領を改めて信託統治領として施政権者に信託したものの、新たに設置された国際連合信託統治理事会は旧連盟の委任統治委員会に比べ権限が強化されており、また信託統治領の自治および独立を目指すよう施政権者に義務を課していた[6]。こうして脱植民地化の動きが加速していった。

1945年の大戦終結以降数年の間に、インドをはじめとして南アジア東南アジアで多くの植民地が独立した。次いで、アフリカ大陸でも急速に独立国家が増加していく。1956年ガーナ独立を皮切りに、特に1960年にはフランス植民地13か国を中心とした17カ国が一気に独立を果たし、アフリカの年と呼ばれるようになった。1960年12月14日には国際連合総会で植民地独立付与宣言が採択され、植民地主義への反対と脱植民地化の推進が明確にうたわれた[7]

1960年代後半になると、ポルトガルを除く欧州諸国はほぼアフリカ大陸から撤退していた。残るポルトガルも1974年カーネーション革命によって植民地の独立容認に転換し、1975年にはポルトガル領植民地のほぼすべてが独立を果たした。1970年代に入ると、いまだ植民地の残っていたオセアニアおよびペルシャ湾岸、小アンティル諸島においても独立が急速に進んだ。信託統治領の独立も進み、1994年に最後の信託統治領であったパラオが独立することで信託統治領は消滅した[8]

2017年時点で国際連合非自治地域リストに掲載されている非独立地域は17か所に過ぎず、しかも西サハラを除く各植民地は人口及び面積が小さく、独立が困難なところがほとんどである。


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