閑谷学校
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西毅一は岡山から閑谷に引っ越し、黌長に就任した[4]。閑谷黌では閑谷精舎の失敗を踏まえて、英学・漢学・数学の3教科を教え、就学期間は3年間[4]。入学生とは14歳以上、講義は週24時間とされた[4]。閑谷黌では小説家の正宗白鳥や詩人の三木露風なども学んでいる[4]。閑谷黌を1898年(明治31年)に志賀重昂とともに訪れた井土霊山はその教育の特色として「品行と学術との並修、寧ろ品行に重きを置く事」「浮華を斥けて実用を旨とする事」「空言を戒めて実践を主とする事」の三つを挙げている[6]
私立閑谷中学校時代「岡山県案内写真帳」(岡山県庁、大正15年5月発行)より全景写真。

1902年(明治35年)、中学校に移行するために学則を改正した[4]。1903年4月、文部省の認可を得て、閑谷黌は『私立閑谷中学校』と改称される[4]。名称は翌年8月に『私立閑谷黌』と変更されるが[4]、教育内容には大きな変化は無かった[4]。大正8年4月には『中学閑谷黌』と改称[4]。大正10年4月には県営となり『岡山県閑谷中学校』となった[4]。この頃の校舎は学房跡地に明治38年に建設された木造2階建て校舎を使用していた[4]。この建物はそのまま昭和39年まで学校として使用されることになる[4]
昭和以降

1954年(昭和29年)、講堂などが特別史跡に指定される[4]。1948年(昭和23年)、学制改革により岡山県閑谷中学校は県立岡山県閑谷高等学校となる[4]。翌1949年には県立和気高等学校と統合され[4]、同校の閑谷校舎となった[4]。昭和39年4月、学校の統合と合理化のために閑谷校舎が閉鎖され[4]、教育の場としての歴史に終止符が打たれる。校舎は明治時代の木造建築の特徴をよく反映した建築物であるので[4]岡山県青少年教育センター閑谷学校社会教育施設)として昭和40年4月より転用される[4]岡山県青少年教育センター閑谷学校が平成3年7月に、他の場所に新築移転したのちは、本館が残されて閑谷学校資料館として利用される[4]。2001年(平成13年)、閑谷学校資料館が登録有形文化財に登録される[7]
使用されている瓦について講堂の窯変瓦飲室の窯変瓦

使用されているは、釉薬を使用しない窯変瓦である。焼き具合によって1枚1枚色合いが違うのが特徴である。また一般の瓦が寿命60年といわれるのに対して、閑谷学校の瓦は300年経過しても殆ど割れないまま使用できている[8]。高い耐久性は高温で焼結されている為であるが、制作過程で変形が起きやすく、屋根に拭いたときに隙間ができて雨漏りしやすいという欠点がある[4]。そのため様々な漏水対策が施されている[4]。閑谷神社には揚羽の蝶の紋が入った軒丸瓦が使用されている[4]。これは閑谷神社が池田光政を祀っているためで池田家の家紋を模ったものである。一方の聖廟には無地の軒丸瓦が使用されている[4]。閑谷の産土神、福神社(備前市閑谷)の近くの山麓には瓦を焼くための登り窯が設置され[4]、閑谷窯と呼ばれた[4]。窯は2基造られ[4]、5万枚の瓦の他、学校で使用する食器や祭器も製造された[4]。職人は京都から陶工を招いたとされる。それらの陶器は後に閑谷焼を呼ばれるようになる[4]。今日では、閑谷窯の遺構は地上部分の大半が破壊され[4]、残りの部分は土砂に埋没しているが、部分的に残っている側面の壁より当時の様子をうかがい知ることが出来る[4]。閑谷窯の大きさは、幅2.3m、長さ13.8m程とされる[4]。したがって、閑谷学校の瓦は閑谷学校近隣の閑谷窯で焼かれたものを指し、伊部地区で焼かれているいわゆる備前焼ではないことがわかる。
沿革

慶安4年(1651年熊沢蕃山が閑谷学校の前身となる庶民教育の場「花園会」の会約を起草。

寛文6年(1666年)池田光政が和気郡木谷村付近を視察。

寛文7年(1667年)藩立の町方手習所を設置。

寛文8年(1668年)木谷村延原(現在の備前市閑谷)に手習所を設置。他に122カ所の郡中手習所(町方手習所より改称)を設置。

寛文10年(1670年津田永忠を奉行に手習所を拡張し閑谷学校の建設が始まる。延原を閑谷と改称。

延宝元年(1673年)講堂完成。翌年に聖廟が完成。

延宝3年(1675年)藩財政の逼迫から郡中手習所を全廃、閑谷学校に統合。

天和2年(1682年)光政没、享年74。

元禄14年(1701年)新たな講堂が完成。全容が整い現在の姿となった。

元禄15年(1702年)御納所(椿山)が学校敷地の東隣に造営され、光政の遺髪・爪等がここに納められた。

宝永4年(1707年)津田永忠没、享年68。

文化11年(1814年頼山陽が来遊。

明治3年(1870年)閑谷学校閉校。

明治6年(1873年山田方谷を招聘し、閑谷精舎として再開。

明治17年(1884年西毅一により閑谷黌として開校。

明治36年(1903年)私立旧制閑谷中学校となる(校長・西毅一)。

明治38年(1905年)学房跡に新校舎(現在の閑谷学校資料館)が完成。

大正10年(1921年)岡山県に移管され岡山県閑谷中学校となる。

大正11年(1922年)当時の史蹟名勝天然紀念物保存法により、閑谷学校が国の史跡に指定される。

昭和13年(1938年)講堂、聖廟、神社等25棟が当時の国宝保存法により国宝(旧国宝、現行法の重要文化財に相当)に指定される。

昭和23年(1948年)学制改革により閑谷中学校は岡山県立閑谷高校となる。翌年、岡山県立和気高校閑谷校舎(現在は岡山県立和気閑谷高等学校)となった。

昭和25年(1950年文化財保護法の施行により、講堂、聖廟、神社等25棟は重要文化財となる。

昭和28年(1953年)旧閑谷学校講堂が文化財保護法に基づき国宝に指定される。

昭和29年(1954年)旧閑谷学校が特別史跡に指定される。

昭和39年(1964年)和気高校閑谷校舎閉鎖。

昭和40年(1965年)旧閑谷校舎は岡山県青少年教育センター閑谷学校となる。

平成7年(1995年)岡山県青少年教育センターが移築となり、旧校舎は閑谷学校資料館となる。

指定文化財旧閑谷学校聖廟 校門(鶴鳴門)閑谷神社(旧閑谷学校芳烈祠)拝殿文庫と火徐山(ひよけやま)


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