上の表で見られるように、ひと月の内にそれぞれ節気と中気が割り当てられており、1月から10月までの節気と中気は本来割り当てられた通りの組合せとなっている。しかし10月の次は「閏10月」となり、閏10月には本来11月の節気である「大雪」だけが入る。
10月の次をそのまま11月にすると、11月の中気である「冬至」がその次の12月に来る。つまり日付よりも二十四節気のほうが遅れることになる。そこで本来割り振られた中気が来ない月は閏月とする太陰太陽暦の決まりに従い、11月になるところを閏10月とし、「冬至」が12月に来ないようにした。
閏10月の次の11月は、「冬至」のほかに12月の節気と中気である「小寒」と「大寒」を含み、12月には1月の節気である「立春」が15日にきている(年内立春)。節気と中気が本来割り振られた月に無く、二十四節気が日付から見て半月ほど先に進んでいるが、太陰太陽暦は中気を暦の基準とし、中気が本来割り振られた月の内に来る事を肝心とする。閏月を入れたことによって、次の年の明治4年では中気がその通りにおさまっている。
明治4年月日付
123456789101112131415161718192021222324252627282930
1月
(小)雨
水
1
月啓
蟄
2
月-
2月
(大)春
分
2
月清
明
3
月
3月
(小)穀
雨
3
月立
夏
4
月-
4月
(大)小
満
4
月芒
種
5
月
5月
(大)夏
至
5
月小
暑
6
月
6月
(小)大
暑
6
月立
秋
7
月-
7月
(大)処
暑
7
月白
露
8
月
8月
(小)秋
分
8
月寒
露
9
月-
9月
(大)霜
降
9
月立
冬
10
月
10月
(小)小
雪
10
月大
雪
11
月-
11月
(小)冬
至
11
月小
寒
12
月-
12月
(大)大
寒
12
月立
春
1
月
また節気と中気の来る月々の日付は次第に遅れている。上の明治4年の表では「雨水」が1月1日、「春分」が2月1日、「穀雨」が3月1日に来ているが、「小満」は4月3日、「夏至」は5月5日、「大暑」は6月6日、「処暑」は7月9日…と、次第に日にちのずれが大きくなっている。
これは上でも述べたように、約十五日おきに定められる二十四節気が一巡する日数よりも、月の満ち欠けの繰り返しによる一年のほうが短いからで、このまま暦を使えば日付と二十四節気はずれを積み重ね、本来割り振られた月に節気と中気が戻る。ただしこの明治4年では、まだ各々の節気が本来より一つ前の月に来ており、年末に「立春」がある。次の明治5年では日付と二十四節気のずれはさらに重なり、6月からは本来の節気と中気の組合せに戻っている。閏月の入る太陰太陽暦は、おおよそこうした流れの繰り返しで成り立っている。
明治5年月日付
123456789101112131415161718192021222324252627282930
1月
(小)雨
水
1
月啓
蟄
2
月-
2月
(大)春
分
2
月清
明
3
月
3月
(小)穀
雨
3
月立
夏
4
月-
4月
(大)小
満
4
月芒
種
5
月
5月
(大)夏
至
5
月
6月
(小)小
暑
6
月大
暑
6
月-
7月
(大)立
秋
7
月処
暑
7
月
8月
(大)白
露
8
月秋
分
8
月
9月
(小)寒
露
9
月霜
降
9
月-
10月
(大)立
冬
10
月小
雪
10
月
11月
(小)大
雪
11
月冬
至
11
月-
12月
(大)小
寒
12
月大
寒
12
月
明治5年11月9日(1872年12月9日)、太陰太陽暦を廃止し太陽暦に改める旨の詔書が政府より発せられ、同年12月3日にはこの日が太陽暦に基づき明治6年(1873年)1月1日と定められた。よって本来大の月である明治5年12月は公式には2日しかないことになった。 閏月は一年の内ではあるが、一月から十二月までの本来の12か月からは外れた存在であり、また同じ月がたとえば「八月」「閏八月」と2か月連続することになる。このことから、閏月を異端になぞらえ、或る程度の期間並立した複数の王朝のうちで、どれが正統でどれが異端であるかを論じる議論を「正閏論」(せいじゅんろん)と呼ぶようになった。 「天に二日なく、地に二王なし」との『礼記』の記述から中国及びその影響を受けた諸国では、「本来皇帝はただ一人であるから、過去の複数の皇帝が居た時代においてもどれか一つの皇帝を正統として歴史書を記すべきである」という思想が支配的であった。
正閏論