開高健
[Wikipedia|▼Menu]
熱心な釣師でもあり、日本はもちろんブラジルアマゾン川など世界中に釣行し、様々な魚を釣り上げ、『フィッシュ・オン』『オーパ!』など釣りをテーマにした作品も多い。現在では浸透している「キャッチ・アンド・リリース(釣った魚を河に戻す)」という思想を広めたのも開高だといわれている。また食通でもあり、食と酒に関するエッセイも多数ある。開高健記念館(茅ヶ崎市)

1974年から神奈川県茅ヶ崎市に居住。1982年から『週刊プレイボーイ』の読者からの人生相談コーナー「風に訊け」を連載。この中で、開高健という名前について「一切名詞が入っていない珍しい名前で気に入っている」と綴り、開高健を「かいた、かけん=書いた?書けん!」と変読みした読者からの投稿を非常に気に入り、度々サインの際に引用していた。

1989年食道癌の手術後、『珠玉』を脱稿するも東京都済生会中央病院に再入院、食道腫瘍に肺炎を併発し死去[1][13]。58歳没。墓所は鎌倉・円覚寺塔頭、松嶺院にある。死後、開高の業績を記念して、1992年から2001年までTBSブリタニカ(現阪急コミュニケーションズ)が開高健賞を、2003年から集英社ノンフィクションを対象に開高健ノンフィクション賞を創設した。2000年1月に羊子夫人が没し、その妹により16年間を過ごした邸宅が茅ヶ崎に寄贈され、開高健記念館として開設された。
受賞歴

1958年 -『裸の王様』で芥川賞

1968年 -『輝ける闇』で毎日出版文化賞

1979年 -『玉、砕ける』で川端康成文学賞

1981年 - 第二十九回菊池寛賞。「ベトナム戦記」から「もっと遠く!」「もっと広く!」に至るルポルタージュ文学確立の功績

1987年 -『耳の物語』で日本文学大賞

作品開高健記念館にある石碑「入ってきて人生と叫び 出ていって死と叫ぶ」
小説

『パニック』は、笹の開花と野ネズミの大量発生に関する新聞の科学記事を見て、関連資料を調べて執筆した。『パニック』では自然界の物理的エネルギー、『裸の王様』では個人を圧殺する組織のメカニズムに対して、それらに対抗できる人間の生命力を求めた作品となっている。平野謙が「『組織の中の人間』というかつての逃亡奴隷が思ってもみなかった運命にまず着目すること、それ以外に私どもの生き抜く道はあるまい」という発見を述べたのが1955年だったが、これは「開高健のような戦後世代には自明の前提だったのではないか」と佐々木基一は評している[10]。『片隅の迷路』では、徳島ラジオ商殺し事件を取り上げて小説化したが、新聞連載中にアイヒマン裁判が起きたためエルサレムに裁判の傍聴にも行った。

『ベトナム戦記』連載の後、東西に分裂した架空の国を舞台にした寓話の形の『渚から来るもの』を『朝日ジャーナル』で連載し、ルポルタージュ作家としてではなく、開高健が「人間にある闇を見なければならなかった作家」として「決定的に変化し、その作用的結果として書かれた作品」とも評されるが(中田耕治[14])、自身でこれを「惨敗」として、再度1年かけて書き下ろし、ハイデッガーが現代を表した言葉をタイトルにした『輝ける闇』を執筆した[15]。『輝ける闇』に三島由紀夫は「すべてを想像力で描いたのなら偉いが、現地に行って取材してから書くのでは、たいしたことではない」と評したが、秋山駿はこれを「旧世代の文学観」とし、「現実を見れば見るほど、凝視すればするほど、反って現実の形が解からなくなり、同時に、視ている自分という主体までが混乱し、解体し、訳の分からぬものになってくる」のであり、この作品がそういう認識の変貌を示す新世代の現代文学だと述べている[16]。『ニューヨーク・タイムズ』では『輝ける闇』について「ベトナム戦争の風景が、音が、においが、名手の手で初めて作品化された」「これほどいきいきしたベトナム報道を、私はみたことがない」と書かれ、『夏の闇』の英訳版について英米では安部公房とともに日本で最も重要な作家とも評された[17]。ベトナムにはその後1968年と1973年にも取材に行き、また中東ビアフラ戦争に取材し、それらを題材にした短編は『歩く影たち』に収められている。

『新しい天体』は、「純粋に食べることの快楽を描くのみで長編小説を構築するという破天荒な試み」の「巧緻極まる独創的な文学作品」である「食味小説」といわれる(谷沢永一[18])。
ノンフィクション

1963年から『週刊朝日』連載のルポルタージュ『日本人の遊び場』『ずばり東京』の評判が高かったため、『週刊朝日』はベトナム戦争の取材を依頼し、『ベトナム戦記』として連載した。『輝ける闇』執筆の頃から、運動不足解消のために少年時代以来の釣りを始め、日本各地を回るようになり、1968年のヨーロッパ訪問時にボンの釣具店主にルアーフィッシングの手ほどきを受ける[19]。その後の戦争取材を含む海外取材先では釣りも計画に組み込み、カメラマン秋元啓一を同行し、アラスカでの鮭釣りからスウェーデンなどの北欧、ナイジェリア中東東南アジアなどを巡り、タイのライ島で桟橋から落ちた時に右足の甲を骨折して帰国、これらの釣りの経験をルポルタージュにして『フィッシュ・オン』として刊行。この『フィッシュ・オン』をサンパウロ大学教授・人文研究所長であった斉藤広志が読み、日本語学校講師をしていた醍醐麻沙夫を通じてアマゾン川での釣りを誘われ、『PLAYBOY』誌の企画として、カメラマン高橋fを同行してツアーを敢行し、『オーパ!』として連載した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:77 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef