オランダへ留学した15名[15]氏名職業修学内容 ドルトレヒトで作業が開始されて1年半ほど経過した1864年(元治元年)、船体の竜骨が組みあがり、第一段階の作業が終了した。幕府より艦名付与の指示を受けた内田は、澤や榎本らと相談し、日本の国情を考慮し、榎本が提案した「夜明け前(蘭語:Voorlichter)」を想起する開陽に決定され[16]、10月20日、関係者らを集めた命名式が執り行われた。この名はオランダの庶民にも伝えられ、「日本軍艦フォールリヒター」として近隣住民の話題にものぼるようになった。 開陽の工事は着々と進行し、1865年(慶応元年)9月14日、進水式が執り行われることとなった。3000トン級の船が造られることは海軍国家であったオランダでも珍しく[17]、進水式には関係者の他、ドルトレヒトの市民が大勢集まり、地元紙にもその模様が詳細に掲載された。カッテンディーケ大佐によるロープカットが行われ、メルウェデの河口に無事着水し、成功裏に終わると、夜には盛大な晩餐会が開催された。その後、開陽はヘレフートスライス(Hellevoetsluis
内田恒次郎軍艦操練所軍艦乗組船具運用、砲術専攻
榎本釜次郎軍艦操練所軍艦乗組船具運用、砲術、機関専攻
澤太郎左衛門軍艦操練所軍艦奉行支配船具運用、砲術、鉄砲火薬専攻
赤松大三郎外国奉行支配役並出役船具運用、砲術、造船専攻
田口俊平外国奉行支配調役並出役船具、砲術、測量専攻
津田真一郎洋書調所教授方出役国際法、財政学、統計学専攻
西周助洋書調所教授方出役国際法、財政学、統計学専攻
古川庄八-水夫頭習得
山下岩吉-上等水夫習得
中島兼吉-大砲鋳物師習得
大野弥三郎-測量機械師習得
上田寅吉船大工船大工習得
林研海医師医学専攻
伊東玄伯医師医学専攻
大川喜太郎(病死)-鍛工習得
建造
武装が完了し、海軍当局による検査もパスした開陽は、オランダ海軍大尉ディノー(Jules Arthur Emile Dinaux)に引き渡され、15日間の航海試験を経て、1866年(慶応2年)10月、ようやく完成した。蒸気機関のみでの巡航速度18マイル、クルップ砲の海上試射距離3900メートルなどの高い試験結果を残し、ディノーは「オランダ海軍にも開陽に勝る軍艦は無い」と断言した[18][注釈 4]。軍艦奉行・勝海舟
開陽は日本への引渡しのため、1866年12月1日(慶応2年10月25日)[2]、フリシンゲンを出港した。この処女航海には、内田ら9人の留学生が同乗し、ディノーの指揮により、帰国の途についた[注釈 5]。イギリス海峡から大西洋を抜けるまでの18日間、暴風雨に見舞われたが、開陽は平然と進み、出港52日目にブラジルのリオデジャネイロに到着した。補給を済ませ、87日目にはインド洋に入り、1867年(慶応3年)2月20日、オランダ領東インド(現・インドネシア)のアンボイナへ到着した。再び補給を行い、3月6日、横浜を目指して出航、1867年4月30日(慶応3年3月26日)[2]10時30分、無事入港した。オランダ出港から150日かかった[2]。入港後すぐ軍艦奉行勝海舟らに出迎えられ、榎本らは久々の再会を喜び合った。
オランダと幕府の支払い交渉や手続きが行われている間、日本での乗組員の編成や訓練が行われた。勝は榎本を軍艦頭並、澤を軍艦役並に任命し、乗組員の採用と養成を指示した。残っていた手続きごとが全て完了した1867年(慶応3年)5月20日、開陽の引渡し式が行われ、オランダ公使ポルスブルックと海軍奉行織田対馬守が交換文書にサインし、正式に引き渡された。
勝によって榎本は軍艦頭並に登用されると、榎本は先ず、オランダ海軍の例に倣い、階級によって服装を分けた海軍の軍服を制定し、各隊員へ支給した。 旧幕府と薩長などとの開戦時、「開陽」は大坂湾にあり、軍艦奉行矢田堀鴻が座乗していた[19]。薩摩藩邸焼き討ち発生後に大坂湾では「蟠竜」が薩摩藩の「平運丸
戊辰戦争
矢田堀と榎本がともに不在であった1月6日に徳川慶喜がアメリカ艦「イロコイ」(USS Iroquois)を経て「開陽」に逃れ、先任士官澤太郎左衛門に命じて品川へ向かった[21]。
その後、榎本は海軍副総裁に就任し、4月11日の江戸城無血開城に至って、開陽丸を新政府軍に譲渡する事を断固として拒否し続けた。そして同年8月19日、開陽を旗艦とした榎本艦隊(回天、蟠竜、千代田形丸)は、遊撃隊など陸軍兵を乗せた運送船4隻(咸臨丸、長鯨丸、神速丸、美賀保丸)を加えて品川沖を脱走。榎本は総司令官を務めたため、開陽丸艦長には澤太郎左衛門が任命された。途中暴風雨に遭い美賀保丸・咸臨丸を失うも、開陽丸は8月末に何とか仙台に到着。すぐさま修繕が行われ、奥羽越列藩同盟が崩壊して行き場を失っていた大鳥圭介や土方歳三などの旧幕府脱走兵を艦隊に収容、10月12日仙台折浜より蝦夷地へ渡航して松前藩などを制圧。箱館戦争で敗れるまで蝦夷地南部を支配した(いわゆる蝦夷共和国)。 10月20日に蝦夷地鷲ノ木沖に到着した開陽丸は、しばらく鷲ノ木沖に停泊。10月25日に旧幕府軍が箱館および五稜郭を占領すると、箱館港に入港して祝砲を撃った。旧幕府軍は松前城を奪取した後、江差へ進軍を開始。その援護のために開陽丸も11月11日に箱館を出港して江差沖へ向かった。11月14日に江差沖に到着、陸地に艦砲射撃を加えるも反撃がないので、斥候を出すと、松前兵は既に撤退していた。榎本は最低限の乗組員を開陽丸に残して上陸し、江差を無血占領した。 ところが翌15日夜、天候が急変する。開陽丸は、タバ風と呼ばれる土地特有の風浪に押されて座礁。江差沖の海底は岩盤が固く、錨が引っ掛かりにくいことも災いした。回天丸と神速丸が救助に向かったが、その神速丸も座礁・沈没する二次遭難に見舞われ、開陽丸は岩礁に挟まれていよいよ身動きが取れなくなる。留守を預かっていた機関長の中島三郎助は、艦内の大砲を一斉に陸に向けて撃ち、その反動で船を離礁させようと試みたがこれも失敗に終わり、乗組員は全員脱出して江差に上陸。数日後、榎本や土方が見守る中、開陽丸は完全に沈没し、海に姿を消した。 主力軍艦たる開陽丸の喪失により、旧幕府軍は新政府軍に対する海上戦力の優位が一挙に崩れ、その後の戦局(箱館湾海戦)に大きく影響をおよぼすことになる。歴史家の中には開陽丸の江差沖への出港を「不必要に開陽丸を投入し、その挙句に喪失せしめた事は榎本の愚策である」と酷評する見解もある。
沈没
開陽の引揚げと復元復元された開陽丸(江差町)