開拓使
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黒田清隆の時代

樺太では、箱館府の時代から岡本監輔が統治の任にあたっていた。兵士移民を送りこむロシアに対し、日本が劣勢に立たされていることに強い危機感を抱いた政府は、明治3年(1870年)に樺太開拓使を設置し、黒田清隆を開拓次官にして樺太専務を命じた。樺太を視察した黒田は「現状では樺太は3年もたない」という深刻な報告を行ない、対抗する国力を充実させるために北海道の開拓に力を入れるべきだと論じた。彼の建議に従い、明治4年(1871年)8月19日に10年間1,000万円をもって総額とするという大規模予算計画、いわゆる開拓使十年計画が決定された。

明治4年(1871年)10月に東久世長官が辞職すると、黒田が次官のまま、東京にあって開拓使の長となった。明治5年(1872年)10月、旧館県であった渡島国に属する福島郡津軽郡檜山郡爾志郡の4郡が青森県から開拓使に移管された。黒田は明治7年(1874年)に長官となったが、北海道に赴任せずに東京から指示を出す態勢をとった。黒田は米国人ホーレス・ケプロンらの御雇外国人を招いて政策の助言と技術の伝習を行わせた。

御雇外国人(クラーク)

御雇外国人(ケプロン)

御雇外国人(ダン)

御雇外国人(ベーマー)

黒田は、北海道の開拓に難渋する現状では自然条件がいっそう不利な樺太まで手が回らないという考えを抱いていた。この方針に反対した岡本の辞任もあって、樺太の開拓は進展しなかった。結局、明治8年(1875年)5月に樺太・千島交換条約によって日本は樺太を手放した。交換の際、日本は樺太アイヌを北海道に移住させた。札幌本庁を統括していた松本十郎は、漁民が多かった樺太アイヌを内陸部に移住させる事に反対して辞任した。松本の辞職で初期の開拓使の高官はほぼいなくなり、かわって黒田を頂点にした薩摩藩閥が開拓使を支配した。

開拓使は潤沢な予算を用いて様々な開拓事業を推進したが、広大な範囲でなおも全てを完遂するには不足であり、測量道路鉄道などの基礎事業を早々に切り上げ、産業育成に重点をおいた。明治9年(1876年)には、札幌農学校と開拓使麦酒醸造所が設立され、現在の北海道大学サッポロビールに至るまでの140年間にわたり、道内外の産業振興に大きな役割を果たすこととなる。

ホーレス・ケプロンによって資源調査を行い、幌内川(三笠幌内川)上流の炭田(後の幌内炭鉱)が埋蔵量が多く、有望であると判明すると、アメリカ人技師ベンジャミン・スミス・ライマンを招いて、炭田の開発計画を立案させることとなった。1878年(明治11年)、事務長に山内堤雲、事務副長に松本荘一郎平井晴二郎が就任して開発が本格化[2][3]、採炭から輸送に至るまで機械化が進められた。

十年計画の満期が近くなった明治14年(1881年)に、黒田は開拓使の事業を継承させるため、部下の官吏に官有の施設、設備を安値で払い下げることにした。これを探知した新聞社は、払い下げの主役を薩摩の政商五代友厚だと考えて攻撃した。これが、明治時代最大級の疑獄事件である開拓使官有物払下げ事件である。

開拓使は翌明治15年(1882年)に廃止され、北海道は札幌県・函館県・根室県に分けられた。
各分野の政策と開拓使時代の北海道
開拓使貫属

開拓使貫属は、開拓使に所属するが身分上の名称を失わずに開拓に従事する者であり、身分が保障されるうえ移住に関しても資金調達の心配が無くなる身分である。

白石藩は、表高1万3千石(実高1万8千石)であったが、家臣7500名を養うには決して豊かとは言えない。加えて、明治2年(1869年)の大凶作により、一揆の気配までもが高くなっていた。このような中、北海道移住への気運が高まるのであるが、その資金については自費移住ということであり、それを賄うだけの資金調達ができるはずもなかった。明治4年(1871年)2月、角田県知事、大参事は、旧白石藩士の窮状を理解し、開拓使に協議のうえ政府に具申。3月17日太政官から片倉邦憲家来、角田県に在留していた者600名に対し北海道移住開拓使貫属を命じた。


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